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blogに関するk-holyのブックマーク (23)

  • 永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    元亀元年(1570)に行われた織田信長の朝倉義景攻めは信長の人生を語る上で外せないイベントの一つである。と言っても、朝倉攻めそのものが画期と言うよりも、この最中に織田信長の同盟者であった浅井長政が信長より離反し、以降織田信長は長期にわたって、いわゆる「信長包囲網」との戦いに突入した、この契機としての位置付けが大きい。さらには、朝倉と浅井の挟み撃ちにされた信長が命からがら逃げだし、木下秀吉が殿を務めたというエピソードはもはや「神話」となっているきらいさえある。 では、なぜ織田信長は朝倉攻めを行ったのか?通説では、織田信長は傀儡将軍足利義昭を利用して、諸大名に上洛を呼びかけた。しかし、義景はこの上洛の質が義昭ではなく信長への臣従にあると考えたため、上洛要請を黙殺した。信長はこれをいい口実として、義景を義昭への反逆者に認定、討伐することにしたというものである。さらには、そもそも足利義昭は傀儡と

    永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
    k-holy
    k-holy 2019/08/21
    状況分析に色んな気付きがあって良い。赤松贔屓的に欲を言えば赤松宗家と小寺にも言及して欲しいところですが。しかし、木林源五父子って誰wってなりますね。続きにも期待。
  • えむふじんがあらわれた

    えむふじんがあらわれた
  • 「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    さて、先ごろ『フロイス日史』に見る永禄の変への道 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』という記事を製作し、永禄の変への経過について何があったのか、考察を加えた(この記事の前提ともなるので、是非ともお読みいただきたい)。その時は『フロイス日史』を用いたが、『フロイス日史』は編纂史料であり、フロイスが後付けで編集した側面もある(だからこそ、変後の情報操作が含まれているのではないかという推測も行った)。ところが、その後になって『十六・七世紀イエズス会日報告集〈第3期‐第2巻〉』に「1565年6月19日付フロイス書簡」という文献があるのに気付いた。明治6年以前の和暦と西暦では日付がずれるのでわかりにくいが、永禄の変が発生した永禄8年5月19日は西暦では1565年6月17日にあたる。つまり、この書簡は変の2日後に書かれたもので(実際には3日後以降の動静も記されている)、その情

    「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
  • ヘンな史料を読む その1 毛利輝元法度案 : にせ茶人の歴史ブログ

  • なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    三好康長はどちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。なぜなら、康長は織田信長の重臣となっており、近年は能寺の変の原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。来年放映予定の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、主人公が明智光秀であるからには、康長も登場することは間違いなく、ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。…ってそういうことを言いたいのではないのだが。 しかし、三好康長は織田信長の家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に信長の敵であった。康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。しかも織田家臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。これこそ

    なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
    k-holy
    k-holy 2019/02/05
    織田政権での三好康長はかつての三人衆政権において篠原長房が果たしていた役割の一端を引き継いだと言えるのかも。康長が長房の躍進と破滅をどう見ていたのかが気になる。
  • 「戦国武将のアピールポイントとは 理想像から共感の対象へ?」知恵泉(NHK Eテレ)の松永久秀特集より - 肝胆ブログ

    NHK Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」という番組で「ヒールの言い分!時代劇定番の大悪人 松永久秀」という特集がされていて、三好長慶・松永久秀の主従愛アピールが半端なくてかんたんしました。 ↓'19/2/5に再放送があるそうです。 www4.nhk.or.jp テレビなのでちょいちょい分かりやすさを最優先した演出や表現になっていたものの、出演者のトークコーナーも含め、総じて面白い内容でしたね。 「愛する主君」「愛する長慶」「長慶の面影を求めて信長に接近」等々、エモーショナル過多な表現に笑いました。 泉下で三好実休さんや三好長逸さんが「誰がNo.2やねん」「三好三人衆かて長慶様を愛してたわ」「なんでいつもいつも久秀だけ」等とお怒りになっているような気がしないでもありません。 (これはこれで三好一門と松永久秀さんの軋轢ぽくて面白いのですが) 信長の野望・大志といい、さいきんの三好家の取り上げ

    「戦国武将のアピールポイントとは 理想像から共感の対象へ?」知恵泉(NHK Eテレ)の松永久秀特集より - 肝胆ブログ
    k-holy
    k-holy 2019/01/31
    “この人がいちばん好きだったのはこの人に違いないみたいな論争の方が盛んな世の中になったらアバンギャルドでいいですねえ”個人的には将軍義晴の本命が最終的に誰だったのか知りたいです。高国であって欲しい。
  • 三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    三好長逸は『日人名大辞典』によれば、以下のような説明がなされている。 三好長逸 みよし-ながゆき ?-? 戦国時代の武将。 三好之長(ゆきなが)の孫。三好三人衆のひとり。松永久秀と協力し,宗家の三好義継(よしつぐ)を後見した。のち久秀・義継の同盟軍と対立,奈良を中心に交戦をくりかえす。織田信長の畿内制圧で阿波(あわ)(徳島県)にのがれ,しばしば反攻したが,天正(てんしょう)元年(1573)の敗走以後は不明。別名に長縁(ながより)。 三好長逸を数行で説明しようと思ったら、おそらくこれ以上にもこれ以下にもならないだろう。しかし、三好長逸は永禄末年から天正に至るまで日史の主役の一人を演じていた。これを考え合わせると長逸の解説を数行で済ませてしまうこと自体が不当である。にも関わらず、歴史関係の図書でも長逸は名前すら出て来ることがあまりない。そもそも三好氏自体が日史の中で画期を示したのに対して

    三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
  • 安芸の夜長の暇語り 毛利家文書289号「郡山合戦報告書の注進について」

    読んだや安芸の歴史など気の向くままに書き綴るサイト。 今のところ中世、毛利元就とその周辺の国人達が主。 四国を考える前にちょいと気になるものを見つけたので。 毛利家文書 書き下し文 「去る2月14日御状、委細拝見申し候 尼子陣退散の由御注進よりて則披露申し候 それにつき、毛利右馬頭方働き比類無き由 それ隠れ無き候。木左かたへ懇ろに注進候 其趣披露仕り候の所、御書成られ候 長政かた、巨細申されるべく はたまた貴所今度御忠節比類無し旨、まずもって珍重候 この表事も、赤松殿仰せ合われ、近日其働き有るべく候 大内殿よりも、御懇使僧以て御申す儀に候 則御返事申され候、次爰元に相之御用の儀承る 疎意あるべからず候、猶委曲御同名甲斐守方申されるべく候 巨細あたわず候、恐々謹言 卯月21日   宍戸安芸守殿 御返報」 私訳 「2月14日の手紙ですが、つぶさに拝見しました。 尼子方が退散した報告をすぐに披

  • 戦国時代〜越水城 : ちょっと歴史っぽい西宮

    戦国時代〜越水城 カテゴリ:中世戦国時代 それが軍事施設である、ということを考えるとややこしい話になってしまうのでひとまず措いて、城のある町っていいなあと思います。 天守があがっていればそれは町のシンボル、ランドマークともなります。また、城跡だけでもいいんです。憩いの広場にもなるし歴史が身近にもなります。 西宮にも、当は越水城があったはずなのですけれどもね。 越水城。どうも完全に時の流れに飲み込まれてしまったようです。大社小学校に建つ石碑と、「城山」という地名だけですかね。往時を偲べるものは。 中世に築かれた城は、その後江戸時代に大名の居城となった場合を除いては、ほとんど遺構が残されてはいないのが現状です。瓦林城も、芦屋の鷹尾城もそうです。近隣での例外は伊丹城と、尼崎の富松城くらいでしょう。市内では、丸山城に少し面影があるでしょうか。 しかしながら、この越水城は「天守閣があった」「それは

  • 亀王丸と義村 

    永正八年三月五日に亀王丸、後の足利義晴が誕生した。 父は十一代将軍足利義澄、母は阿与(阿子)末の者と伝わる。義澄は日野永俊の娘と結婚したが四年後に離縁している。 永正五年父義澄は義尹、高国らに京より追われ、近江岡山の九里備前守を頼りここに滞在していた。 そのような流浪の中での誕生であったが、もう一人流浪の中で生まれた子がいた、亀王丸の兄、義維である。 この義維の生年は定かでは無く、義晴と同い年とする説から二歳年長であるとする説などがあるが、この頃の話は二人を混同しているものもありややこしい。 義澄は合戦の最中にあることから、亀王丸を播磨の赤松次郎(義村)に預けることとし、母阿与と共に播磨に送った。 亀王丸等は密かに近江を離れ、塩川種満その家人三十余輩と共に摂津、丹波の脇道を通り、三木越えで播州に入ったという。 一方、兄の義維は細川之持に預けられている。この時の別れが後に不幸を招こうとは、も

    k-holy
    k-holy 2017/10/24
    赤松義村を調べてて一番印象に残った記事。浦上村宗との対立ばかり採り上げられますが、亀王丸(義晴)との関係も浅くはなかったはずなんですよね。高国邸での村宗への御成の際に義晴は何を思ったか…。
  • 「戦国三大悪人 戦国のダークヒーロー松永久秀は本当に悪人だったのか?」片岡愛之助の解明! 歴史捜査(BS日テレ) - 肝胆ブログ

    テレビで「松永久秀さん悪人じゃないよ説」をやっていてかんたんしました。 www.bs4.jp 下剋上の戦国時代。 裏切りと悪行に彩られた生涯を送った伝説の武将がいた。 戦国の大悪人と呼ばれた松永久秀! かの織田信長も、徳川家康に松永を次のように紹介したと伝えられる。 「この老人、これまで人のようせぬことを三つしよった。 まず足利将軍を殺害した。 主君三好家への謀反が二つ目。奈良の大仏殿を焼いたのが三つ目でござる」 江戸時代に作られた歌舞伎の演目「金閣寺」にも悪漢として登場し、 その人物像はダークヒーローとして広く定着した。 だが、最新の歴史研究で、 松永の悪人伝説は後世に作られたものだった事が判明! 現代に残された数々の証拠から、全く違う人物像が浮かび上がってきた! 悪名高き松永の東大寺大仏殿焼き討ちは冤罪だった!? 東大寺を舞台に繰り広げられた三好三人衆との攻防戦の真実とは? さらに松永

    「戦国三大悪人 戦国のダークヒーロー松永久秀は本当に悪人だったのか?」片岡愛之助の解明! 歴史捜査(BS日テレ) - 肝胆ブログ
    k-holy
    k-holy 2017/10/06
    久秀は梟雄→忠臣ってインパクトの強さで注目されてるけど、特に永禄4年以降の三好政権をどう評価するかで、久秀の後半生の評価も変わってくると思う。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007536209 http://ci.nii.ac.jp/naid/110010041750
  • 歴史に学ぶ仕事術 宇喜多直家に学ぶ空気にあらがう方法 : 歴史に学ぶ仕事術

    宇喜多直家は、祖父が討ち死にしたのち流浪の身となり、当時備前守護の弟であった浦上宗景に拾われました。浦上宗景の元で手柄をあげつづけて、少しづつ所領を広げます。 1551年、主君の浦上宗景が、兄で播磨室津城主の浦上政宗に反旗を翻しました。結果、備前は政宗派(備前西部、尼子氏が支援) vs 宗景派(備前東部、毛利・三村氏が支援)の2派にわかれてたたかうことになりました。直家は、砥石・高取山城を奪取し、松田氏率いる東部の国人衆と対峙することになりました。 備中の英傑三村家親と毛利氏の支援によって、宗景は有利に戦いを進めていきます。尼子晴久の急死もあって、松田氏が宇喜多直家と和睦をむすび、備前一国は平定されたかにみえました。ところが、ここにきて、浦上宗景は三村氏・毛利氏と干戈をまじえることにしたのです。尖兵は、宇喜多直家。ところが、相手の三村家親は強く、一気に龍ノ口、岡山、船山城が陥落してしまった

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    k-holy
    k-holy 2017/03/03
    このブログも軽く読める割に結構面白いですね。この記事は宇喜多直家周辺のあれこれな情勢の推移が地図も入れて分かりやすく説明されてます。
  • 歴史に学ぶ仕事術

    みなさん、こんにちわ。 当ブログの執筆者  なかむら ふみじ と申します。 このブログは、 みなさんの「働き方」に関する悩みを「歴史の教訓」から解決できればと思い書いています。 「歴史の教訓」というと、役に立たないイメージが強いと思います。 しかし私は、そうは思いません。確かに、説話の集合としての歴史にはなんの価値もないと思います。 ですが、歴史を「みんなの決断と実行の履歴」と考えると、現代にも活かせるのではないでしょうか。 細部を追えば、私たちの人生に活かせるものが眠っていることが多いです。それを掘り起こすことができるように頑張ります。(末尾の自己紹介も読んでねー。) 目次 織田信長 羽柴秀吉 徳川家康 毛利元就 武田信玄 上杉謙信 宇喜多直家 最上義光 篠原長房 黒田官兵衛 藤堂高虎 楠木正成 人物比較 西南戦争 太平洋戦争 現代史 中国史 世界史 読者登録して、最新記事をお楽しみくだ

    歴史に学ぶ仕事術
  • 望海波日記

  • 越後長尾・上杉氏雑考

  • 第二十六回 高国政権の平和と陰り ~大永期の室町幕府~ : 応仁の乱以降の畿内史

    今回は細川高国の独裁政権についてです。 高国は第二十四回で足利義稙が死んで畿内統一を完成させ、天下人となっています。 1507年の永正の錯乱で政元が死ぬと、その後継を巡って澄之、澄元、高国の三人の養子が争いました。高国はまず澄元派と組んで義兄弟の細川澄之を殺害、続いて政権を握った足利義澄、細川澄元、三好之長と対立し、足利義稙を担ぐ大内義興や畠山尚順の大軍をもってこの3人を近江へ追放します。 そして1511年に京都奪還を狙う義澄・澄元派に船岡山合戦で勝利を挙げると、三好之長の嫡男長秀を戦死させました。さらにこの頃足利義澄や阿波細川家の重鎮成之が病死し、阿波家は力を落とします。 すると今度は畠山尚順、大内義興、足利義稙といった味方と対立するようになりますが、畠山尚順は1515年に紀伊に隠居し、大内義興は1518年に領国周防へ帰還していきました。続いて攻めてきた三好之長を等持院の戦いで破って処刑

    第二十六回 高国政権の平和と陰り ~大永期の室町幕府~ : 応仁の乱以降の畿内史
    k-holy
    k-holy 2016/11/10
    また素敵なブログに出会えました。細川高国を「天下人」と捉えるのは結構斬新では。僕も三好長慶をそう呼ぶのであれば、高国もそう呼んで差し支えないのではと考えます。割と短い天下ではありましたが。
  • Papathana's ブログ

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    k-holy 2016/03/10
    明応軍乱編!細川政元とか赤沢宗益に興味ある方は必読
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    k-holy 2014/11/05
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    k-holy 2014/10/31