今回は、石川幹子『緑地と文化ー社会的共通資本としての杜』岩波新書を紹介しよう。
この本は、神宮外苑の再開発事業において、樹林の伐採が行われたことに対して、反対の意を唱え、その理由を明確に提示した書である。ちなみに「杜」は「もり」と読む。
序章「問題の根源はどこにあるのか」において、著者がまずこう始めている。
2024年10月、神宮外苑において文化資産である樹林地の伐採が強行された。「神宮外苑地区市街地再開発事業」によるものであり、施行を許可したのは、東京都である。都市計画公園明治公園が、3.4ヘクタール削除され、現在の秩父宮ラグビー場と神宮球場を取り壊して超高層ビルを建設し市街地とするための再開発事業が開始された。
このことを著者がなぜ問題視しているかということを前書きから引用すると次のようである。
明治神宮内苑・外苑の杜は、伊勢神宮における内宮と外宮の伝統を踏まえ、連絡道路(裏参道)で結び創り出された世界にも類例を見ない「社会的共通資本としての緑地」である。本来、文化を護り育てていく使命を有する東京都が、市民の預かり知らぬところで、様々な制度をつくりだし、国際記念物会議や国連人権委員会からの警告さえも無視し、事業者が白昼堂々と樹林を切り倒し、文化遺産を破壊することが、何故、可能となるのであろうか。ほかならぬ神宮外苑で、このような破壊行為が合法化されれば、全国の公園緑地は、その歴史的・文化的意味が抹殺され、市街化の波の中に消えていくこととなる。
ここに登場する「社会的共通資本」という専門用語は、ぼくの師匠である宇沢弘文先生が創出した思想概念だ。ぼくは、『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書や『宇沢弘文の数学』青土社でこの概念について詳しく解説しているので、読んでみてほしい。このブログでも、こことかで解説している。
東京都の再開発の意図はなんだろうか。著者によれば、
何のために、百年前に創り出された「公衆の優遊の場」が複合市街地と化するのであろうか。東京都は次のように回答している(「神宮外苑地区まちづくりを進める意義等について」2023年4月14日)。
①老朽化したスポーツ施設を更新し、世界に冠たるスポーツクラスターをつくる。
②歩行者ネットワークを強化し、新たな複合型のまちづくりを推進する。
③広域避難所としての防災性を高める。
これらの「目的」に対して、著者は次のように反論している。
①のスポーツクラスターの整備は、2014年7月に、サブトラックの建設が困難とされ、すでに頓挫している。かわって登場したのが②の複合型まちづくりであったが、外苑は市街地ではなく公園であり、論理は当初より破綻していた。超高層ビルの建設により、昼間の人口が増大し、一人当たりの避難有効面積も減少するため、③の広域避難場所の機能は大きく損なわれる。公的機関である東京都が目標を理路整然と説明することができないという、危機的現実が横たわっている。
このように地方自治体の説明が二転三転するときは一般に、その背後にある思惑が「私的利益の創出への加担」である。公共的利益が本願でないから、「理屈」が変容するわけだ。
ぼく自身は、自然環境第一派ではない。アウトドア・レジャーは嫌いだから、一切行かない。文明の利器の恩恵に浴して暮らしていたい。それでも、卒業した大学のキャンパスの樹木や池や並木道は好きだったし、勤務する大学のキャンパスの桜などの木も嬉しい。生活空間の中の緑地には、知らず知らずのうちに効用を得ているのだと思う。
また、通っていた高校が御徒町にあったため、住んでいた日暮里まで歩いて帰ることがときどきあった。そのとき、上野公園を歩くことは気持ち良かったし、都美術館や科学館や国立博物館にも寄り道したこともあった。これは高校生としてはリッチな経験だったと思う。
そんなこんなで、自然環境を有無も言わさず守るべきだという傲慢な環境派には与しない一方、自分の都市緑地に関する嗜好も押しつけるつもりはない。ただ、この著者の言うことはとてもよくわかる。東京都の再開発計画は、どう割り引いても、公益のためにではなく、私的利益の誘導に思えるからだ。
経済が不況に陥ると、たいていの場合、「公的領域の私的利用化」が行われる。要するに、「公共財」というみんなが目に見えない形で効用を得ている存在を、私的財に変換して、目に見える金銭的な利益(言ってみればGDP)を生み出そうとするのである。
現在の日本経済の低迷は、金持ちがその金銭欲のために購買力を消費に回さず資産に積み立てるために起きている。しかし、その不況による被害を最も被っているのは資産を持たない貧困者だ。にもかかわらず公的部門が、公共財を私的財に変換して金持ちの懐を暖め、貧困者から公共財の生み出す効用を奪いとるのであれば、それは反社会的な所業というしかないだろう。
著者は、神宮外苑の価値について、次のように語っている。
誕生した神宮外苑の最大の特質は、日本に存在しなかった「広場」を中央に創り出したことにある。陽光の降り注ぐ芝生に深い緑陰を落とす疎林が配され、林間を流れる小川に沿って、絵画館、音楽堂が計画され、四列のイチョウ並木は堂々たるエントランスとして植栽された。
そう。「広場」という言葉は、日本では特別な意味を持たないが、本当は重要な概念なのだ。宇沢先生の下で勉強していたとき、ルドフスキー『人間のための街路』を輪読した。この本には、「広場」の意義が大きく扱われている。ヨーロッパ社会において「広場」は重要な意味を持っていた。それは、市民の憩いの場であり、露天商の市場であり、野外演劇場であり、集会の場でもあった。非常に多様な機能を持っている、ということなのだ。
神宮外苑という「広場」もそういう意義を備えていたであろう。それを「私的財」として払い下げることになれば、それは単なる「単一機能」の資本と化し、金銭では評価できない大きな損失を生み出すことになる。
本書『緑地と文化』は、古地図や写真がふんだんに掲載された、東京の都市としての歴史を知ることができる本だ。読むだけで楽しい。だから、再開発に賛成でも反対でも是非読んで欲しい本である。



