失われた時を求めて13「 見出された時 Ⅰ」
マルセル・プルースト
吉川一義 訳
岩波文庫
2018年12月14日 第1刷発行
底本:マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(1913-27) プレイヤッド版
『失われた時を求めて』 第12巻の続き。
表紙裏の袖には、
” 幼年時代の秘密を明かすタンソンヴィル再訪。 数年後、 第1次対戦 最中のパリでも時代の変貌は容赦ない。 新興サロンの台頭、サン=ルーの出征、「破廉恥の殿堂」での一夜・・・。 過去と現在、 夢と現実が乖離し混淆するなか、文学についての啓示が「私」に訪れる。”
とある。
時代は、大きく流れる。タンソンヴィルは、かつて、病弱な私がサン=ルーを追いかけていった場所。そして、戦時下のパリの様子。はっきりと時代が書かれているわけではないけれど、何年もの時が流れている第13巻。
タンソンヴィルでは、サン=ルー夫人となったジルベルトと再び語り合うようになる。だが、それは、サン=ルーの浮気をめぐる泣き言だったり、かつてジルベルトのことに夢中になった時代には想像もつかなかったような会話だった。
パリでは、暗い戦争の雰囲気の中、サディズムにふけり狂人化していくシャルリュス男爵。そして、その道へ案内するジュピアン。みんな戦争の狂気の中、狂っていくのか。シャルリュス男爵は、遂には倒錯者として逮捕されてしまう。
私の思考は、過去から今へ、今の自分をつくっているすべての過去へ、とさまよう。スワンがいなければ出会わなかったジルベルト。オデットがいなければ存在しなかったジルベルト。スワンがいなければバルベックにいくこともなく、アルベルチーヌと会うこともなかったであろうこと。あらゆる縁を漠然とうけとめつつも、人生とはそういうものだという深い感慨にふけるすでに歳を重ねた私。
いったい、今、主人公の私はいくつになったのだろう・・・。年齢不詳だけれど、長い年月が流れている。
そして、やはり、身体の弱い私は、ながい療養生活を余儀なくされ、過去をじっくりと振り返る時間を得る。パリに戻り、ゲルマント大公邸にいけば、それぞれが歳を重ねたかつてのゲストたち。過去の何かのきっかけが、何かを呼び起こす。マドレーヌの味覚による過去のよみがりと同じ記憶のよみがえりを経験するのだった。
無意識の何かが、無意識の何かを呼び覚ます。それが、人の思考というものなのか。そして、思い出すという幸福を感じる。こうした幸福感が、文学になるのではないのかと思う私。ある時は、ふと庭の小石につまずいた後に態勢をとりなおしたことに、小さな幸福を感じ、その幸福はマドレーヌの香り、マルタンヴィルの鐘塔の眺めとか、ふとしたことから呼び覚まされる幸福と同様に、それまでの不安や懐疑が雲散霧消するかのような爽快さもあった。
この幸福は、文学にすることでしか、再創造できないのだ、と悟る。しかし、作品の筆は進まない。それは、生涯全体を生き抜かない限り、作品の素材は集めきれないのではないからではないかと考える。では、今の私ができることは何なのか。私の内的思考と、外部観察が続く。
13巻で、サン=ルーは、戦死する。悲しむゲルマントの人びと。狂気のシャルリュス男爵。今まで通りの暮らしを求めるサロンの人びとも、それぞれに変化していく。
気になる言葉を覚書。
・ バルカン戦争: ブルガリア、セルビア、モンテネグロのバルカン同盟諸国が、勢力の衰えたトルコに仕掛けた戦争。 1912~13年。 ヨーロッパ列強の利害が絡み、第一次世界大戦の一要因となった。
ロベール(サン=ルー)とジルベルトと私の会話のなかで、ロベールが、「バルカン戦争にはわくわくしている」と話す。
・ルドルフ大公:オーストリア皇太子。エリザベートの息子。 狩猟小屋で愛人と死んでいるのが発見され、心中したと言われているが、真相は不明。物語の中では、コタールがある大公妃こそルドルフ大公に至近距離から発砲した張本人、などとホラ話をする。
丁度、先日、ミュージカル『エリザベート』を観てきたところだったので、観てきたばかりの悲劇のルドルフぼっちゃんと顔が浮かんでしまった。子役も可愛かった。
・ロバート・ルイス・スティーブンソン:1850~94。『宝島』『ジキル博士とハイド氏』の著者。スワンが褒め讃えた作家。コタール夫人もサロンで名前を口にする。大作家の名前を知っているという知識の披露。
・” ・・・一番程度の低い 全くの愚か者や遊び人たちは、 戦争が起こっていることなど 頓着しない。 しかし、ずっと水準の高い自分の周りに内的生活を作ってきた人たちは、外部の様々な事件の重要性をほとんど考慮に入れない。”
世の中が変わっていく様を頓着しないひとたちを揶揄して「私」の独白。
・”文章の最後がそっくりまたキャビアにされた・・・”:「キャビアにされた」とは、検閲でキャビアのように黒く塗りつぶされた、という意味。要するに「墨塗」。都合の悪い文章を黒く塗りつぶす習慣は古今東西、変わらないらしい。
・”ポーランドのアウグストは、シナ磁器の大花瓶のコレクションと引き換えに、配下の一個連隊を与えたそうだ”:ポーランド王アウグスト2世(1670~1733)は、マイセン磁器の誕生に貢献した。
・” 私はアメリカ人のことを悪く言うつもりはない。 底抜けに鷹揚な人たちだそうですな。 言ってみればこの戦争には、オーケストラの指揮者が存在せず、どの国も他の国よりずいぶん遅れてダンスの輪ならぬ戦闘に参加した。 アメリカ人はわが軍がほぼ事を終えた時に参戦したので、足かけ4年にわたる戦争で、我が国においては鎮静したかもしれぬ熱意を、まだ持ちうるのだろう。”:シャルリュスが私に語った話。
・ ”戦争の継続を欲するものは、戦争を始めたものと同じくらい、 いやもしかするとそれ以上に罪がある。”
・ ”人が夢中になる相手はまさに個性的な存在であるがゆえに、様々な人への恋自体、既に多少は錯乱であると言える。”:ジルベルト、アルベルチーヌらに対する、過去の恋愛を振り返っている私の言葉。
・ロベールの戦死の報を聞いて、悲嘆にくれる私。:
” それともサン=ルーは自分の早世を予感し、その予感は必要とあらば父親の夭折によって正当化されると考えていたのだろうか? もとよりそんな予感はありえないことに思われるが、 しかし死もまたある種の法則に従っているように見える。 例えば、かなりの高齢または若年で世を去った両親を持つ人は、 ほとんど否応なく同じ年で死ぬように定められていると思われる場合が多く、長寿をえて大往生した両親を持つ人は、百歳まで癒さぬ悲哀と病魔に悩まされるのに対して、若くして他界した両親を持つ人は、幸せで健康的な生活を送っていたにも関わらず、まるでそれが死の実現に必要な手続きであったとしか思われぬほど折悪くしく偶然訪れた病気によって、避けられない早すぎる期日に命を奪われる。”
・ジョルジュ・サンド『フランソワ・ル・シャンピ』:文学の魅力を私に教えてくれた本。並外れて素晴らしいのではないが、並外れた存在感をもつ作品。
・”・・・このとき、 新たな光が私の内に射してきた。 その光は芸術作品こそが失われた「時」を見いだすための唯一の手段であると気付かせてくれた光のように目覚ましいものではなかったが、 その光のおかげで 私は文学作品の素材はことごとく 私の過去の人生にあることを悟った。”:過去において自分を苦しめた女たちが、女神の姿へ近づくのを感じる私の悟り。
「私」は、ジルベルト、ゲルマント夫人、アルベルチーヌと、次々とその愛に苦しめられたが、 この女性たちを次々と忘れてしまい、生き残ったのは異なる相手に捧げられた自分の愛情だけであったことに気がつく。
・” われわれはそうした個人(過去に愛した人たち)から 遠く離れて生きている以上、 祖母やアルベルチーヌに対する私の愛情がそうであったように、 われわれのどれほど強い感情でさえ何年も経つと自分自身も知らないものとなり、もはや理解できない単なる言葉にすぎなくなる以上、また愛していた人がことごとく死に絶えたというのに、 われわれがなおもいそいそと社交人士のところに出向いて亡き人たちについて話すことができる以上、こうした忘れられた言葉を理解できる手立てがあるのなら、われわれはその手立てを用いるべきではなかろうか? そうすればそのことばは、すくなくとも永続するものとなって、亡き人たちの最も真正なエッセンスをとりだし、亡き人たちを万人の魂のための永遠の収穫物たらしめてくれるからだ。”
・ ”私が本当に祖母を失ったのは、事実として祖母を失ってから何ヶ月も経った時だ。”
時がたたないとわからないことは、たくさん。
13巻までよんでわかったことが、たくさんある。
まだわからないことも、たくさんある。。。。
理解し得ないから、求め続けるのかもしれない。
とうとう、13巻まで到達。
あと、一巻。
