『なぜ働いているとクラシック音楽が聴けなくなるのか』という本があったらいいな

 ベストセラーには警戒をしているが、それでも、浮世の流れを知るために手にとることもある。というわけで、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)。ちょっと遅いけれど。

 タイトルは秀逸だが(私もこのタイトルのゆえに手に取った)、中身は労働と読書を巡る明治以来の日本近代の言説を概説する箇所が主であろう。これにタイトルと絡む「まえがき」を付した上で、第7章の後半くらいから、タイトルが示す観点のもと現代における労働と読書の関係を分析し、最後に筆者なりの読者論をまとめるという構成である。

 だから、いきなりタイトルが示す問いへの答えが示されると思うなら読者は肩透かしをくらうかもしれない。人によっては、第1章から第6章までの記述は不要と考えるだろう(文中の答えを語を使うなら第1章からの第6章の記述は「ノイズ」であるとも言える)。もっともこれは、本書を批判しようとして言うのではない。率直に記すなら、私はむしろこの「ノイズ」の部分を、近代史の一断面の描写として楽しく読んだし、三宅が参考文献として挙げているいくつかの文献も後日読んでみたいと思った(「参考文献一覧」は、日本近代史をある側面から描くものかもしれない)。

 

 さて、本題。

 三宅が言う、「働いている本が読めなくなる理由」とは、労働環境の変化の中で読書、わけても文芸書や人文書の読書が、適合を阻害する「ノイズ」と捉えられるようになったから、というものだ。以下、重要と思われる箇所を引く。

 

「就職活動や転職活動、あるいは不安定な雇用のなかで成果を出すこと。どんどん周囲の人間が変わっていくなかで人間関係を円滑に保つこと。それらすべてが、経済の波に乗り市場に適合することー現代の労働に求められる姿勢である。

 適合するためにはどうすればいいか。適合に必要のない、ノイズをなくすことである。[略]

 コントロールできないものをノイズとして除去し、コントロールできる行動に注力する。それは大きな波に乗るーつまり市場に適合しようと思えば、当然の帰結だろう。

 だとすれば、ノイズの除去を促す自己啓発書に対し、文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍は、むしろ人々にノイズを提示する作用を持っている。」(同書182頁)

 

 こうした状況下では、当然ながら「文芸書や人文書」を読む時間はなくなっていく。ではどうすれば人々は再び読書の時間を取り戻せるのか?

 この事態への対処としての三宅の提言は、労働(あるいはその他の事柄)に対して「全身全霊」で打ち込むことをやめ、これを許容する「半身社会」へとシフトすることとなる(ちなみに読書など、趣味へのコミットメントも「半身」でよいとされる。同書259頁参照)。

 

 まあ、そうだよね、とはいえどうしたらこの加速がかかりまくった社会の中で「半身」で生きていけるのだろうか、というのが、率直な感想である。

 読書の意味付けは比較的古典的なものだと思うし、読書と労働の関係についてはこれまでも似たようなことが言われてきたと思う。その意味では「目新しい」ものはない。

 もっとも急いで付け加えれば、これは批難ではない(私は「目新しい」情報は疑ってかかる癖がある)。本書は、多くの人の「本を読みたいのだが時間が」という漠然とした思いをすくいとり、日本近代の読書と労働を巡る言説の伝統に現在の状況を位置づけることで、「やはり本を読みたい」と思う人々に自身の状況を分析する言葉を提供しているのではないか。そして、この作業を通じて、読書を巡る議論の一つのプラットフォームを作り上げてくれていると思う。その功績は大きいと思う。

 

 もっとも、本書を読んで次に浮かんだのは、人々はもはやクラシック音楽など聴く時間を持っているのだろうか、という問いである。

 読書については、うまく習慣化すれば細切れの時間を活用すれば、膨大な長編小説の読了も不可能ではない。毎日の通勤時間を必ずそれに充てれば、『失われた時を求めて』もいつかは読了できるだろう(凡庸な例をお許しあれ!)。

 もっともクラシック音楽の場合、わけても典型的な交響曲の場合は鑑賞に40分程度の時間を必要とすると言ってよかろう(いろいろな言い方はあろうが、これくらいの演奏時間の交響曲クラシック音楽の一つの「典型」と考えることは許されると思う)。

 さて、多くの人は「40分」という時間があったらどうするか? 何か一仕事するにはちょうど良い時間である。私も、もしも「40分」という時間がぽっとできたら、愛するブラームス交響曲2番の新譜を聴くよりも、明日の仕事の準備を選び取りそうな気がする。

 ここには、「読書」にはどこまで行っても最後に何かしら「情報摂取」という性質が残るのに対して、音楽は適切に楽しむなら「享受」でしかありえない、という事情も絡んでくるような気がする。

 こうした観点から「読書」と「音楽鑑賞」の共通点と違いを考えてみても面白いかもしれない(例えば友人への「おすすめ」について -読書に関しては適切と思うならある程度の長編小説でも推薦できるが、音楽鑑賞については30分以上の曲を薦めることには、少なくとも私には躊躇いがある)。

 三宅が行ったような研究はほぼ不可能だろうが、それでも「なぜ働いていると音楽が聴けなくなるのか」という観点から戦後日本史の一断面を描き出すことはできないだろうか、などとも夢想する。

 

M&M's

(11月12日記)