はてなキーワード: 書き言葉とは
朝、ネットニュースを眺めていた。
モンテッソーリ教育は、100年以上も前にイタリア初の女性医師であり教育学者でもあったマリア・モンテッソーリ博士によって考察された教育法である。
アじゃない「ヤ」。
Wikiも間違ってやがる。
日本人はMariaをマリアと読む。バカなのか?無教養なのか?
聖母マリア様。これも正確にはマリヤだ。大昔にアホがローマ字読みで誤訳して今更直せないのだろう。
いいかい
中学1年生で習うわけだが、Knowは「ノウ」と発音する、Kは無視する。黙字という、これはさすがに覚えてるよね。
英語(及び欧州諸語)はローマ字ではない、単語ごと、あるいは文脈で発音が変わることは普通にある。
例えば日本語だとKONNITIWAは「こんにちわ」とは書かない「こんにちは」だ。
末尾の「わ」を文字で書くときわ「は」に置き換える、例外ではあるが日本語の基本的なルールだ。議論は無用
「わ」を「は」に置き換えていいなら「わしは橋をわしと呼ぶ」と言うたところでダメだ、田舎の方言と嘲笑われるだけだ。
ともかく英語にはこのような書き言葉と発音の不一致はクソほどある。
伝説の超有名ロックスターのVan Halenをヴァン ハレンとは呼ばない。常識的にヴァン ヘイレンだ。
いいかい、Mariaって名前は世界で一番使われる女性名だ。世界中でマリヤさんのインタビューやらドラマや映画で出てくる。
英語でもフランス語でもドイツ語でもイタリア語でもいい、聞いてみろ、マリ「ヤ」だ。
手っ取り早く「アヴェ・マリア」あたりでググって聞いてみろ
「あゔぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーまりーーやぁぁぁぁぁ」と歌っている。
「Y」が聞こえないなら知性以前の問題で耳がぶっ壊れてるから耳鼻科行って来い。
それ以外、なんでもいい、YoutubeでMariaで検索して英語(及び欧州諸語)の曲を聞いてみろ、有名どころだとBlondie Mariaでよかろう。
「Y」が聞こえないなら知性以前に耳鼻科に行け。
この「Y」を専門的に言えば挿入音(epenthesis)と言う、Mariaの場合はglide epenthesis(半母音挿入)と言う。
たいくかん(何故か。。。」
このようなケースは多くの言語で見られる。
で、だ
この固有名詞、人名は音で翻訳する原則が日本は揺らぎが酷すぎる。
特にアルファベットや漢字だと大雑把というか、ケースバイケースというか、テキトーというか、出鱈目というか。
一貫性が無い。
新千歳空港を「New Chitose Airport」と英語表記する、アホなのか?
「新」は英語では「New」って言うんだよ、知ってるもん、だから新千歳はNew Chitoseなんだよ
竹内まりやは正解。
ともかくだ、海外で仕事して、相手がMariaさんだとする。マリアと呼んだら『「ヤ」な、マリヤな』と訂正される。
俺はされた。
で、だ、
「ヤ」じゃなくて「ヤ」と「ア」の真ん中くらいじゃね、発音記号も。。。
ともかく、この問題はMraiah Careyがさらに議論を複雑にしている、ぶっちゃけMariaの発音は英語圏でもしばし話題になるのだが
マライア・キャリーが混乱に拍車をかけた、彼女は明瞭に「マライア」なのだ。
「ア」じゃんとなるのだが「h」があるわけで。ところが英語圏の人間ですらこれに引きづられてMaria=「マリア」に変化している。
特に西海岸は母音を明瞭に発音したがる訛りがあるので「ア」に近づくのだ。
もうね、俺もわからん。正解はなんなんだ
たとえば「存在しないかもしれない背景を想定しすぎなのでは。」の部分だけを抜き出してchatgptに比較させたまとめ
「~なのでは」は口語では自然ですが、書き言葉としては「~なのではないでしょうか」「~しすぎではありませんか」の方が丁寧。
「存在しないかもしれない背景を想定しすぎ」までで意味は十分に通じています。
👉 くだけた場面なら違和感なく使えます。少し改まった文に直すなら:
「存在しないかもしれない背景を想定しすぎではありませんか。」
2. 全部間違ってるのに、どことか言ってるのがもうやべーんだよw
完全に会話・ネットスラング寄りです。
「やべーんだよw」は意図的にくだけた強調で、文法的には「やばいのだよ」と解釈可能。
「どことか言ってる」がやや崩れており、厳密に直すと「どこと言っているのかが~」くらいになります。
👉 口語としては自然に伝わりますが、正しさより感情表現が優先されている文。
比較まとめ
正確で安定しているのは 1 の文。
「文法的には一応成立している」と評価されるものを「間違ってる」と断じるのは無理があると思うなあ
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これは、大量の書き言葉を学習する際に、発音しにくい文字列を優先的に排除するためです。
たとえば「会い合う」や「追い追う」などの表現は、AIが生成する文章ではまず見られません。
また、AIは構造的シンメトリーを無意識に作り出してしまうため、文の前半と後半が意味的に対応していることが多い。
たとえば「空は青く、心は静かだった」という文はAIの典型です。
自然なようでいて、人間は感情と自然現象をこんなふうに一対一対応では語らないんです。
つまり「AはB、BはC、ゆえにAはC」という構造の文章が少ない。
なぜならAIは確率ベースで文章を作っているので、推論の途中でCよりDの方が確率的に高いと判断すると、平気でそっちに行ってしまう。
逆にいえば、ちゃんと三段論法になっている文章は人間の可能性が高い。
「SNSでわざわざ方言を使う人がわからない」っていうのがあったが「わざわざ」の使い方間違ってるよね。勝手な予断がある。
方言を使う人にとっては自分の方言の何から何までについて書き言葉ではどう書くのかの対応関係を把握などしてないのかもしれない。
そういう人から見れば書き言葉で書くためにこそ「わざわざ」対応関係を調べると言うことになる。
俺はアスペだろうし活字で言葉を学んだ割合が多い口だしアニメとかで口調がキョン化する程度には「確固たる自分の方言」ってものを持ってない人間だけどな。
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250607155028 -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaEpqswAKCRBwMdsubs4+ SNW1AQCfFNRHUlXOZn61wR0oTDoN026YrUMt8YC93hO6SCaFnAD/SgsXq5yw8oP5 K/1AUQ3HjBCS0l7ZYJhd5pUpa3L3Zgc= =+REt -----END PGP SIGNATURE-----
AIは整然とした三段論法や接続詞を好みますが、人間は雑。たとえば:
⇒ “でもまあ” “それはそれとして” “たぶん” などの脱線風接続詞が有効。
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AIはオチをつけたがるが、人間は「で、何が言いたいの?」で終わることが多い。
⇒ 断言を避けて“逃げる”と人間くさくなる。
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ChatGPTは文体が揃いすぎる。あえて崩すと良い。
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⇒ “わかってるふり”をやめると生っぽさが出る。
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わちきは高校生のときからメンタル不調で、いちばんやばかった時期は異常なほどの孤独感と焦燥感がつねに頭から離れず、微熱が2、3ヶ月ほどつづき、食欲はなく、寝ることも起きることつらくて、ただ存在してるだけでつらいみたいなかんじだった。もしかしたら鬱病とか自律神経失調症とかいうやつだったのかもしれん。そんなメンタル不調のときにしてたいくつかの習慣について書いていく。
「なぜ世界は存在してるのか?」「宇宙がはじまる前にはなにがあったのか?」「意識とは何か?」とか考えてた。でもこういうことをじっくり考えると気分が悪くなる。たとえば「意識とは何か?」という疑問について考えるとする。てはじめに自分の意識というものを観察してみる。自分の内側に注意を向けてみる。でもそこにはなにも見つからない。観察前は自分という「かたまり」がどこかにあるはずだと直感的に信じていたけど、観察後にはそのようなものはどこにも見当たらないことに気がつく。その事実を頭ではなく体で理解したとき、まるで真っ暗な真空空間になげごれたみたいな恐怖感をおぼえる。「自分とはなんなのか」「そもそもこの世界ってなんで存在してるんだ」みたいな「存在に対する疑問」がうまれてやがて死ぬ。
人生がうまくいかない原因は自分のパーソナリティにあるんじゃあないかとおもい心理学を学んでた。フロイトとかカール・ロジャースとか加藤諦三などの本を読んだ。心理学では無意識に抑圧されたトラウマ(幼少期の親との関係など)が現在起きているさまざまなトラブルの原因だと説明されることがよくある。わちきはトラウマを克服する方法をいくつか試した。すると一時的に気持ちが軽くなることもあるが、たいていはすぐ元にもどった。
エッセイを読んでた。たとえば又吉直樹のエッセイ「東京百景」を読んだことがある。暗い人間の陰鬱とした日々みたいのが書かれてて、暗い人間であるわちきはとても共感し、ページをめくる手がとまらなかった。ところが読み終わったあとの気分はあまりいいものじゃあなかった。ネガティブなエッセイを読んだあとというのは「やっぱり生きることはつらいことなんだ」という価値観がより強固になるだけで、「気持ちが晴れわたる」「将来に希望をいだく」みたいなことはおきない。そういえば又吉が「言葉は事物を確定させる作用がある。書いたり話した言葉は、タトューのように体にきざまれる」と書いていたけれど、わちきもそう思う。ところで本に書かれている文章ってSNSやブログに書かれている文章と違ってなんか普遍的かつ絶対的な真実という印象をうけてしまうのだがなぜだろう。
哲学や心理学やエッセイのほかにもいろいろな本を読んだ。本のなかには共感する文章とか役立つ文章があり、それらを読むと勇気が湧いたり心の傷が癒やされたりした。本は人生をよりよくするものだと信じていた。家庭や仕事でつらいことがあると本を読んだ。本が精神安定剤のような役割をしてた。
「その日あった嫌なこと」「いまかかえている人生の問題とその解決策」「幸せになるためにするべきこ」などを日記に書いていた。そうすることで明日以降にやるべきTodoリストをつくることができた。日記を書くことは、人生の問題を効率的に解決するために役立つと信じていた。
「幸せになるにはどうすればいいか」ということを真剣に考えた結果、ネガティブコンテンツから離れることが必要不可欠だと考えるようになった。ネガティブコンテンツとは「触れたあとに気分が晴れないコンテンツ」のことである。ネガティブコンテンツに該当するものは哲学とか心理学とか暗いエッセイなどだ。これらは共感するけども「生きるのつらいよね」で止まってしまい希望が持てない。家にあったそれらの本はすべて捨てた。だが本当にお気に入りの本は捨てられず、視界に映らないクローゼットの中にしまいこんだ。くわえて日記を書くこともやめる事にした。日記を書くことで過去のつらい出来事を掘り起こして再体験したり、必要以上に将来について考えて不安を感じることになると考えたからだ。たしかに日記はやらなければいけないことを洗い出せる。だがそれはやらなければいけないことが常に頭の片隅にあるということでもある。わちきはそれがストレスだった。
かくしてわちきはネガティブコンテンツから離れる事に。最初は気持ちが落ち着かなかった。哲学することや本を読むことは、不安から意識をそらせて苦痛を低減させる効果があったのだろう。読書はある種の依存症だったのかもしれない。わちきは気分転換がてら新しい趣味をはじめることにした。まずコロコロコミックを小学生ぶりに買って読んでみた。いまだにフルカラーのページを見るとワクワクする。あと恋愛系の漫画を読んでみた。「不思議の国のアリス」とか「推しに甘噛み」とか。あとアニメをたくさん観た。「Aria」とか「スペース・ダンディ」とか。アニメはいつも「悲しいことがおきない物語」または「悲しいことがギャグとして消化される物語」を選んだ。悲しいことをみると気分が落ち込むので。あと3DSを買ってエクストルーパーズとかダンボール戦機をプレイした。小学生の時に遊びたかったけどしたお金がなくて買えなかったゲーム。まあこんなかんじの日々を数ヶ月すごした。んでさまざまな変化があらわれた。
だんだん哲学について考えないようになった。そして哲学なんてどうでもいいと感じるようになった。いま哲学の本を読むと「あほくさ」という印象がある。言葉という虚構をつかったただの論理ゲームで、現実に地に足がついていないというか。ところで、「なぜ世界は存在してるのか?」「宇宙がはじまる前にはなにがあったのか?」「意識とは何か?」みたいな疑問にたいする答えを仮に「真実」と呼ぶとすれば……真実がわかったところでわちきたちの生活はどのように変わるのだろうか。きっと何も変わらないんだろう。もしも科学技術がめちゃくちゃ発展して、これらの真実がわかったとしても、わちきたち人間の生活になんの影響もおよぼさない。「朝にパンを食べる」「風呂に浸かる」などの動作にはなんの変化もおきなくて、わちきたちはただ生きるだけだ。わちきのなかで哲学的な疑問は解決された。それは真実わかったからではなく、真実をわかる必要性がなくなったからだ。そういえばカーネギーの本「道を開ける」に「人は人生をわかるために生まれてきたのではなく、生きるために生まれてきた」みたいなことが書いてあったが、わちきもそう思う。理屈でなく直感でそう思う。
心理学には意識と無意識という概念があるけども、本当にそんなものはあるのか?心の中に意識という空間と、無意識という空間がある……みたいな認識をわちきはもっていたのだが、いまになるとそんなわけあるかと思う。あと現在の問題の原因が過去のトラウマだというのも疑っている。「数十年まえの出来事」と「いま感じていること」にそこまで強い因果関係が本当にあるのか?「意識と無意識があって、トラウマを処理したないと……」っていう話は言葉のうえではきれいにまとまっているけど、現実は本当にそうなのだろうか?
わちきは論理的な文章が好きだった。たとえば主語・副詞・動詞の順番はいつも同じにするとか、ルールががっちりと決まっている数学のような文章が好きだった。でもそうやって書いた自分の文章を読むと、「自分らしくない」という妙な違和感があった。自分の文章に納得できなかった。そこで思い切って自由に文章を書いてみることにした。小学生の日記帳みたいに文法や単語はぐちゃぐちゃでいいから、おもいついた言葉をなんの加工もせずにただ吐き出していく。最初はただそれだけの作業が難しかった。どうしても修正したくなった。でも次第になれた。そしてわちきの意思は「もっともっと自由に書く!」という方向に進んだ。読んだときにわかりやすい文じゃなくて書くときに気持ちいい文を書きたい。わかりやさは大事だけど、言葉ってのは相手のためだけでなく自分のためのものでもあるんじゃあないか。この意識の変化は話すときにも影響をあたえた。これまでわちきは話すときにも書き言葉を使っていたけど、だんだんとその傾向はなくなった。結局、人はありのままの自分で生きるしかないのだなと。わちきは自分をすごい人だと相手におもってほしかった。実際以上の自分の能力を相手に植え付けようとしていた。でもそれは最悪の試みだった。この試みをして、仮に成功した場合、その高いイメージを保たなければならないプレッシャーに苛まれることになるし、失敗した場合、恥ずかしくて死にたくなる。つまり「自分を賢く見せたい」という試みは、成功しても失敗しても、その先に楽しい未来は待っていない。
さっき「本当にお気に入りの本は捨てずにクローゼットにしまった」と書いたけど、いまではそれらの本もすべて捨てることができた。もう魅力を感じなくなった。いまはメンタルがめちゃくちゃ回復してる。家庭や仕事で嫌なこともあるけど以前に比べたらめちゃうまくいってる。人生でもっとも暗い時期から抜け出したと思ってる。それができた要因の一つにネガティブコンテンツから離れたことがあると思う。ネガティブコンテンツから離れるのは容易いことではない。ネガティブコンテンツにはDIOのような不思議な魅力がある。だがぜひ離れることに挑戦してみてほしい。アリーヴェデルチ。