「事務室」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 事務室とは

2025-11-20

https://anond.hatelabo.jp/20251120082816

    留置事務室殿。

   今日の予定は順送3名です。9時までに順送するので準備お願いします。

2025-10-28

社長のいる事務室

社長支配欲でムンムンに満ちててクッソキショいね

なるべくいたくないし

いるざるを得ないとしても極力受け取る情報を最小限にしてえんだよな

2025-10-09

あおやま「あなたはいつもどうやって過ごしているんですか」


     菓子を食ったり、しんどくなってきたら、Youtubeを聞くわけですね。あなたみたいに事務室キットカットを並べているわけではない。こっちはそういう法人ではない。

   しんどくなってきたら音楽聴くに決まって居るでしょう。

2025-08-24

嫁のために合宿頑張る

もともとニートだったが実家を追い出され生活保護受給

アパート家賃としてもらっていた住宅扶助風俗に使い込み家賃を滞納。

部屋を退去させられ、使い込みがケースワーカーにバレた。

ケースワーカーから「お前は金銭管理一人暮らしもできない」と言われ、施設に入れられた。

土木会社が営む生活保護受給者向けの施設

部屋は個室で食事も出るが、風呂トイレは共同。

食事冷凍食品の揚げ物と白米だけ。

部屋も風呂トイレ食堂も他の入居者も全て汚くて毎日発狂

それでも慣れればなんとかなるもので、月に一回の受給日とその日に行く月に一回の激安ソープを心待ちにする日々が続いた。

毎日悶々とする日々。

生活保護11万円もらえていたが、4万円は家賃として最初から施設に振り込まれから風俗代には回せない。

残りの7万円のうち、五万は食費や施設利用料としてヤクザしかし見えない強面の施設職員役所の窓口で回収される。

残りは二万。

ただ、そのうち五千円は前述の使い込みの返済のために最初から役所に引かれていた。

一万五千円。

からソープは月に一回だけだった。

ある日俺のソープ通いを知ってる施設経理のおじいさんからもっと風呂屋に行きたいなら若いんだから上にいけよ」と言われた。

上とは土木会社

まり施設経営するNPO本家にあたる土木会社のこと。

俺は肉体労働が大嫌いだったが、ソープのためにと堪えて施設長に相談し、翌日から勤務を開始した。

地獄のような毎日

とはならず、朝早くから夕方まで言われたことをやっていればなんとかなった。

返事の小ささ、力の無さ、段取りの悪さで最初は1日に数十回怒鳴られたが、3週間目には怒鳴られることもなく1日を終えられるようになった。

心待ちにした給料日

給料日付で俺の生活保護廃止になり、汚い施設から待望の会社寮に入居した。

会社ももといた実家アパート比較すると汚かったが、施設よりはだいぶマシだった。

食事の内容も豚の生姜焼きや揚げたての唐揚げサラダなど。

風呂は共同だが綺麗で、トイレと洗面台は個室に備え付けだった。

給料から寮費、弁当代、社会保険料税金が引かれても生活保護全額より多い金額が手に入った。

俺はすぐにでもソープに行きたかったが、会社から言われたのが「金を貸してやるから運転免許を取れ」だった。

免許合宿代をもらいに会社事務室に行った時に出会ったのが嫁。

それまで汚いおじさんに辟易していた俺にとって、久々に同年代笑顔を向けてくれる女性だった。

担当ケースワーカーも同年代の女だったが、あいつは愛想笑いの一つもなかった。

俺は合宿から帰り免許を手に入れると、毎日鍵や書類の返却を引き受けて事務室に行き嫁に会いに行った。

嫁はもともと高校中退してキャバクラで働いてたが、酒で胃や体調を崩し、キャバクラの客だったうちの会長から誘われて入社したそうだ。

俺はソープも忘れて嫁に夢中になり、やがて付き合って、やがて結婚した。

会社から会社所有のアパート引越した。

子供も欲しい、車も欲しい、結婚式も挙げたい、もっと給料が欲しい。

そんな欲望を満たすため、俺は今玉掛けクレーン大型特殊合宿に来ている。

ソープのためじゃない。

嫁のために。

頑張るぞ。

2025-05-28

やっとおわった

しんどい

またアソコの部屋までいかねばならんかも

ちょっと事務室みてコヨーテ

2025-03-31

自閉症ADHDなど発達障害と言われる子との付き合い方

この話

『僕なら〇〇って言うよ』発達障害と言われるADHDやダウン症との向き合い方について正直に話します【岡田斗司夫 切り抜き サイコパス アスペルガー 障碍者 】

を見て大学中の人から一言病気に対する不理解以外、だいたい言っていることは合っているけど、死ぬ死ぬ詐欺だけは微妙。実際に死んじゃった学生が居るので。そういう最悪の事態を避けたいのなら、早い目から対処必要かも知れない。ただ、我々が見ているのは最終局面だけなので、早い目に着手したとして対処可能なのかどうかは知らない。対処せずに大学まで進学させるのは問題の先送りでしかないことだけは分かっておいてほしい。自分が知る限りで取れそうな対処法は動画言及されていた方法も含めて以下の4つ。

中学高校大学の途中ぐらいまでは、試験わんこそば状態学業成績の優劣が決まる。ほいっ!ほいっ!と次々目の前に出されてくる問題を、さっさと解ければ優秀。賢い。頭が良い。他に多少の苦手があっても、周りの連中と上手く付き合えなくても問題無し。その調子で頑張れ。……ということになるのだが、その調子問題が無いのは、わんこそばが続く間だけ。そこから目を逸らすと不幸になる。薄々自分コミュニケーションスタイルが周りからは受け入れられにくいことには気付きつつも、自分は成績が優秀だから問題無い、という、現実から目を逸らしたプライドが高い人が出来上がってしまう。そして、研究活動就職活動など、わんこそば供給が止まったところで思いっきり躓く。それまで、周りの人よりも自分の方が出来が良くて優秀だったのに、周りの人がなんなくこなしていることが自分には出来ない、という困難に直面することになる。

「『「大学時代バイトリーダーとして率先して頑張りました!!』という身の上話が、就活面接でとても有利に働く……」という現状を憂う大学関係者の声は多い。大学時代の自慢は、「ちゃん勉強したことです」と言えるようにしやがれ、と。ただ、試験の成績では計れない指標も確かにあるので、一概に否定しづらい。それは、「バイトリーダーを任される程に素晴らしい人材」という高い品質保証する話ではなく、「バイトリーダーを任せても良いと思えるぐらい普通の人」という「期待を下回らない」方向の保証。ただのバイトなら、マニュアルの通りに動いて同僚と挨拶も絡みもしない、みたいな態度でも通るし、そもそも、即解雇されてる可能性もある。が、バイトリーダーまで努めていれば、大丈夫だろう。もし、親類の子の中に「この人にバイトリーダーを任せるのは大丈夫か?」と思える人が居たら、早めに対処して下さい、と伏してお願いしたい次第。

体感では、バイトリーダーを任せたくない人材、多くの人が求めるようなコミュニケーションを取るのが難しい学生が、100人中、2~3人ぐらいは居るように感じた。というか、そもそも、だいたいそのぐらいの割合で、医師診断書付きで、ADHD自閉症を原因とする要配慮申請が出ている。「当人計画を立てて実行するのが苦手、あるいは、急な何かで動けなくなることがあるため締め切りに関しては可能範囲配慮すること」とか、「口頭での伝達事項は聞き漏らしが多いため、補講やレポートの締め切りなどは必ず文書で通知するように」とかあれこれ。そういう注意書き付きの人を雇おうと思って貰えるのかという話。

例えば最近は厳しくなってそういう話は聞かないが、私が学生の頃はとても雑な時代で、補講をちゃんとやらない先生とかも多かった。本来は、海外出張などで休講にした場合は、どこかでその分、補講しないといけないんだけどそれをサボる。補講をやるならこの土日に、と何日か補講日が儲けられていて、出張申請時にいつ補講をやるのかも申し出ないとダメ、というような規定がある。そこで、書類上は補講をやることにしつつ、「皆さん、休日に出てきたくないですよね。来ても先生も居ないし出席も取らないし資料の配付もしないし、うんまあ、そういうわけです(笑)」みたいに冗談めかして笑いを取ることで「補講はしません」と伝える、みたいな悪事も横行していた。そして、それを聞かずに書類上は補講となっているのを見て補講日にちゃんと登校してきて、いつまで待っても先生も他の学生も来ないことにパニックになって学務の事務室相談に行って、事務方教員悪事がバレた、みたいな話もあった。

ちゃんと補講をやれ、というのも悪いのだが、そういうコミュニケーションスタイル学生への配慮が足りないのも悪い。伝わるように伝えるのが、伝える側の責任である。仮に、会社で働いていて部下としてそういう人が配属されたら、その人が最大限力を発揮できるように配慮して面倒を見るのが務め人たる上司としての義務である。……という前提を置いたとしても、それより前、「じゃあ、その人を雇うかどうか?」という判断をする場で、積極的に「雇う」という判断はしないだろう。その人が悪いわけではないのだが、同じような学業成績で、「ほら、あれやっといて。よしなに調べて」で動いてくれる候補者が居るなら、そっちを雇った方が楽だ。就職面接だけを乗り越えれば、あとは、人を解雇しづらい日本法律に守って貰えるから、という戦略も戦績は良くないらしい。それっぽい受け答えの特訓をして臨んでも、企業側の百戦錬磨面接官には見抜かれる。

の子就職面接に来たとして採用したいかどうか?バイトリーダー安心して任せられそうかどうか?そういった基準子供達を見守り、ダメそうだったらどうにかして上げて欲しい。学校の成績は良いか大丈夫、というのはどうにもならなくなるまで問題を先送りにしてしまうことでしかない。学校ほとんどの人からそっぽを向かれているが親友が1人居るから大丈夫、みたいなのも大丈夫ではない。「お前と話すのは精神にしんいからもう嫌だ」と面と向かって言える人は少ない。それでもどこかで限度を超えてしまって面と向かって言われてしまうかも知れない。面と向かって言わないぐらいに優しい人でも、卒業まで我慢すれば、と思っているだけかも知れない。遠くの高校大学へ進学するからじゃあね、みたいに自然に縁を切る話は割と良く聞く。

どうしても他人との適当関係構築が出来そうにないなら、自分たちが幸せになるためだったら倫理観なんて無視してしまえ、の精神で書いてしまうと、障害者手帳を取るというのは大きな力になる。一定数の障害者を雇うことが法律義務づけられているため、大企業ほど、その枠をより優秀な人材で埋めたがっている。その枠を、試験問題ものともせずにさくさく解けるような人材で埋められれば万々歳だ。そのための受け入れ体制も十分にあるだろう。

動画に出てきた学歴プライドに固持する人のような問題も見かけるが、残念ながら学歴というのは出された問題を解く能力が高いという、能力のほんの一面だけの評価でも成り立ってしまう。勉強やら教養やら人付き合いやらを満遍なく学んだ人の間で比較すれば、学業成績が良い人の方が良い仕事が出来そう、という判断基準にはなりえる。が、学業成績だけでプライドを持っても役に立たない。プライドの高さもあり障害者手帳を取るのは、自分普通じゃないと認めてしまうことだ、と嫌がる方も多い。身内はそれでも大丈夫から自分らしくあればいいから、と言ってくれるものだけど、残念ながらそれは身内だけでしかない。動画でも言われていたように、最後までその生き方を選ぶのであれば、ずっと支えてくれる身内が必要だ。そうでないなら、身内以外から仕事を任せられるような自分に変わっていくか、自分らしくても誰かに雇って貰えるよう社会制度を上手く使う、つまり障害者手帳を取るとかしかない。

2025-02-10

会社についたら

まずコーヒーのもう

そのあと事務室でアレ借りたいわ

2025-01-26

anond:20250126132608

だいたい押されたら即停止して乗務員確認とるまでその場で動かせないところもあるし、次の駅で対応でも、各社が立会を削減する流れがあって、終日から時間限定廃止にしてホームからすぐに確認しにくい時点で、躊躇なくマナー違反程度で非常ボタンはあり得ないんですよ。

非常ボタンでなければ事務室から出る時間計算して先の駅で対応できるけど、押されたらその場で対応か、次の駅で必ず一旦止めて時間かけてでも確認しないといけない。確認して対処して復旧するまで運転できなくなるから。それ知らない本職でもなさそうな人がこうやって無責任に非常ボタン言うのだけは本当に迷惑。やめてもらいたいですね。デマですよこんなん。

2024-12-25

   シーンとなった後に考えても、三木健次を愛する者はいない。絶無。まあ、どこかのね、家に住んでるんだろうけども、事務室から帰宅して。

  あの、全然強くみえない、んですよ、うっとおしいだけなんですよ。手ごわいなって感じには、ならないんですよ。

2024-10-01

最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎に金を貸すと言った。けれども与次郎には渡さないと言った。じっさい与次郎金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である自分に会って手渡しにしたいというのは――三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、 「やっぱり愚弄じゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。  翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。下宿へ帰るのもめんどうだから、途中で一品料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。前を通ったことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。瓦葺の門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ会ったことがない。門は締まっている。潜りからはいると玄関までの距離は存外短かい長方形御影石が飛び飛びに敷いてある。玄関は細いきれいな格子でたてきってある。ベルを押す。取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」と言った時、三四郎自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。下女のほうは案外まじめであるしかもうやうやしい。いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの掛かっている西洋である。少し暗い。  下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して出て行った。三四郎は静かな部屋の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。その上が横に長い鏡になっていて前に蝋燭立が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。  すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎バイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリック連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い音と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎情緒によく合った。不意に天から二、三粒落ちて来た、でたらめの雹のようである。  三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。 「いらっしゃい」  女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は廂の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。 「とうとういらしった」  同じような親しい調子である三四郎にはこの一言が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に笑を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど発作に近い。 「佐々木が」 「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で細工をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断で、じつはなんだかわからない。この不可思議蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。 「佐々木が来ました」 「なんと言っていらっしゃいました」 「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」 「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。 「ええ」と言って少し躊躇した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、外面をながめだした。 「曇りましたね。寒いでしょう、戸外は」 「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」 「そう」と言いながら席へ帰って来た。 「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。 「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると 「どうしておなくしになったの」と聞いた。 「馬券を買ったのです」  女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。 「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなた索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」 「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」 「あら。だれが買ったの」 「佐々木が買ったのです」  女は急に笑いだした。三四郎おかしくなった。 「じゃ、あなたお金がお入用じゃなかったのね。ばかばかしい」 「いることはぼくがいるのです」 「ほんとうに?」 「ほんとうに」 「だってそれじゃおかしいわね」 「だから借りなくってもいいんです」 「なぜ。おいやなの?」 「いやじゃないが、お兄いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」 「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」 「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」 「御迷惑なら、しいて……」  美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、 「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。 「降らなければ、私ちょっと出て来ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。 「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。沓脱へ降りて、靴をはいていると、上から美禰子が、 「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。  二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあい三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通女性以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義から、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだからこちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。  そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。 「どこへいらっしゃるの」 「あなたはどこへ行くんです」  二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。 「いっしょにいらっしゃい」  二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、 「お願い」と言った。 「なんですか」 「これでお金を取ってちょうだい」  三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座預金通帳とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。 「三十円」と女が金高を言った。あたか毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、 「丹青会の展覧会を御覧になって」と聞いた。 「まだ見ません」 「招待券を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」 「行ってもいいです」 「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」 「原口さんが招待券をくれたんですか」 「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」 「広田先生の所で一度会いました」 「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子稽古なさるんですって」 「このあいだは鼓をならいたいと言っていました。それから――」 「それから?」 「それからあなた肖像をかくとか言っていました。本当ですか」 「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。  三四郎はまた隠袋へ手を入れた。銀行の通帳と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずであるしかるに女が、 「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。 「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。  学生が多く通る。すれ違う時にきっと二人を見る。なかには遠くから目をつけて来る者もある。三四郎は池の端へ出るまでの道をすこぶる長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人とものそのそ歩いている。会場へ着いたのはほとんど三時近くである。妙な看板が出ている。丹青会という字も、字の周囲についている図案も、三四郎の目にはことごとく新しい。しか熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ一種異様の感がある。中はなおさらである三四郎の目にはただ油絵水彩画区別が判然と映ずるくらいのものにすぎない。  それでも好悪はある。買ってもいいと思うのもある。しか巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。  美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。  長い間外国旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

anond:20241001222935

ベニスでしょう」

 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とをながめていた。すると、

「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国景色かいものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

里見さん」

 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎そばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な連と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬の肉が落ちている。

「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである迷惑だろうが大晦日でもかかしてくれ。

「その代りここん所へかけるつもりです」

 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。

「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。

「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。

三井です。三井もっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものから、うまくいかいね

 原口は首を曲げた。三四郎原口の首を曲げたところを見ていた。

「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャー相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

 三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから

「ありがとう」

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。

 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである。ここにもベニスが一枚ある。

「これもベニスですね」と女が寄って来た。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

 女は「さっき?」と聞き返した。

「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを愚弄したのですか」

「なんで?」

 女の語気はまったく無邪気である三四郎は忽然として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪いの?」

「だからいいです」

 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足を受け取って、出ると戸外は雨だ。

「精養軒へ行きますか」

 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって? さっきのこと」

「いいです」

だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。雫の落ちない場所わずしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

「借りましょう。要るだけ」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。

2024-09-30

三  学年は九月十一日に始まった。三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義時間割りがあるばかりで学生は一人もいない。自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。講義はいからまりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。すましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。裏へ回って、大きな欅の下から高い空をのぞいたら、普通の空よりも明らかに見えた。熊笹の中を水ぎわへおりて、例の椎の木の所まで来て、またしゃがんだ。あの女がもう一ぺん通ればいいくらいに考えて、たびたび丘の上をながめたが、丘の上には人影もしなかった。三四郎はそれが当然だと考えた。けれどもやはりしゃがんでいた。すると、午砲が鳴ったんで驚いて下宿へ帰った。  翌日は正八時に学校へ行った。正門をはいると、とっつきの大通りの左右に植えてある銀杏並木が目についた。銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根のうしろ朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。日は正面にある。三四郎はこの奥行のある景色を愉快に感じた。  銀杏並木こちら側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少しさがって博物の教室がある。建築は双方ともに同じで、細長い窓の上に、三角にとがった屋根突き出している。その三角の縁に当る赤煉瓦と黒い屋根のつぎめの所が細い石の直線でできている。そうしてその石の色が少し青味を帯びて、すぐ下にくるはでな赤煉瓦一種の趣を添えている。そうしてこの長い窓と、高い三角が横にいくつも続いている。三四郎はこのあいだ野々宮君の説を聞いてから以来、急にこの建物をありがたく思っていたが、けさは、この意見が野々宮君の意見でなくって、初手から自分の持説であるような気がしだした。ことに博物室が法文科と一直線に並んでいないで、少し奥へ引っ込んでいるところが不規則で妙だと思った。こんど野々宮君に会ったら自分発明としてこの説を持ち出そうと考えた。  法文科の右のはずれから半町ほど前へ突き出している図書館にも感服した。よくわからないがなんでも同じ建築だろうと考えられる。その赤い壁につけて、大きな棕櫚の木を五、六本植えたところが大いにいい。左手のずっと奥にある工科大学封建時代西洋のお城から割り出したように見えた。まっ四角にできあがっている。窓も四角である。ただ四すみと入口が丸い。これは櫓を形取ったんだろう。お城だけにしっかりしている。法文科みたように倒れそうでない。なんだか背の低い相撲取りに似ている。  三四郎は見渡すかぎり見渡して、このほかにもまだ目に入らない建物がたくさんあることを勘定に入れて、どことな雄大な感じを起こした。「学問の府はこうなくってはならない。こういう構えがあればこそ研究もできる。えらいものだ」――三四郎大学者になったような心持ちがした。  けれども教室はいってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。その代り学生も出て来ない。次の時間もそのとおりであった。三四郎は癇癪を起こして教場を出た。そうして念のために池の周囲を二へんばかり回って下宿へ帰った。  それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。三四郎がはじめて教室はいって、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の心持ちはじつに殊勝なものであった。神主が装束を着けて、これから祭典でも行なおうとするまぎわには、こういう気分がするだろうと、三四郎自分自分の了見を推定した。じっさい学問の威厳に打たれたに違いない。それのみならず、先生ベルが鳴って十五分立っても出て来ないのでますます予期から生ずる敬畏の念を増した。そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、流暢な英語講義を始めた。三四郎はその時 answer という字はアングロ・サクソン語の and-swaru から出たんだということを覚えた。それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。その次には文学論の講義に出た。この先生教室はいって、ちょっと黒板をながめていたが、黒板の上に書いてある Geschehen という字と Nachbild という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。三四郎はこれも大事手帳に筆記しておいた。午後は大教室に出た。その教室には約七、八十人ほどの聴講者がいた。したがって先生演説口調であった。砲声一発浦賀の夢を破ってという冒頭であったから、三四郎おもしろがって聞いていると、しまいにはドイツ哲学者の名がたくさん出てきてはなはだ解しにくくなった。机の上を見ると、落第という字がみごとに彫ってある。よほど暇に任せて仕上げたものみえて、堅い樫の板をきれいに切り込んだてぎわは素人とは思われない。深刻のできである。隣の男は感心に根気よく筆記をつづけている。のぞいて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいていたのである三四郎のぞくやいなや隣の男はノート三四郎の方に出して見せた。絵はうまくできているが、そばに久方の雲井の空の子規と書いてあるのは、なんのことだか判じかねた。  講義が終ってから三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見おろしていた。ただ大きな松や桜を植えてそのあいだに砂利を敷いた広い道をつけたばかりであるが、手を入れすぎていないだけに、見ていて心持ちがいい。野々宮君の話によるとここは昔はこうきれいではなかった。野々宮君の先生のなんとかいう人が、学生の時分馬に乗って、ここを乗り回すうち、馬がいうことを聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。下駄の歯が鐙にはさまる。先生はたいへん困っていると、正門前喜多床という髪結床の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。その時分には有志の者が醵金して構内に厩をこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼っておいた。ところが先生がたいへんな酒飲みで、とうとう三頭のうちのいちばんいい白い馬を売って飲んでしまった。それはナポレオン三世時代の老馬であったそうだ。まさかナポレオン三世時代でもなかろう。しかのん気な時代もあったものだと考えていると、さっきポンチ絵かいた男が来て、 「大学講義はつまらんなあ」と言った。三四郎はいいかげんな返事をした。じつはつまるかつまらいか三四郎にはちっとも判断ができないのであるしかしこの時からこの男と口をきくようになった。  その日はなんとなく気が鬱して、おもしろくなかったので、池の周囲を回ることは見合わせて家へ帰った。晩食後筆記を繰り返して読んでみたが、べつに愉快にも不愉快にもならなかった。母に言文一致手紙を書いた。――学校は始まった。これから毎日出る。学校はたいへん広いいい場所で、建物もたいへん美しい。まん中に池がある。池の周囲を散歩するのが楽しみだ。電車には近ごろようやく乗り馴れた。何か買ってあげたいが、何がいいかからいから、買ってあげない。ほしければそっちから言ってきてくれ。今年の米はいまに価が出るから、売らずにおくほうが得だろう。三輪田のお光さんにはあまり愛想よくしないほうがよかろう。東京へ来てみると人はいくらでもいる。男も多いが女も多い。というような事をごたごた並べたものであった。  手紙を書いて、英語の本を六、七ページ読んだらいやになった。こんな本を一冊ぐらい読んでもだめだと思いだした。床を取って寝ることにしたが、寝つかれない。不眠症になったらはやく病院に行って見てもらおうなどと考えているうちに寝てしまった。  あくる日も例刻に学校へ行って講義を聞いた。講義あいだに今年の卒業生がどこそこへいくらで売れたという話を耳にした。だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校地位競争している噂だなどと話している者があった。三四郎漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せるようなにぶい圧迫を感じたが、それはすぐ忘れてしまった。むしろ昇之助がなんとかしたというほうの話がおもしろかった。そこで廊下熊本出の同級生をつかまえて、昇之助とはなんだと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教えてくれた。それから寄席看板はこんなもので、本郷のどこにあるということまで言って聞かせたうえ、今度の土曜にいっしょに行こうと誘ってくれた。よく知ってると思ったら、この男はゆうべはじめて、寄席へ、はいったのだそうだ。三四郎はなんだか寄席へ行って昇之助が見たくなった。  昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵かいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵かいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。帰り道に青木堂も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである赤門はいって、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたか小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、 「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた。この男は佐々木与次郎といって、専門学校卒業して、今年また選科へはいったのだそうだ。東片町の五番地の広田という家にいるから、遊びに来いと言う。下宿かと聞くと、なに高等学校先生の家だと答えた。  それから当分のあい三四郎毎日学校へ通って、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。  ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。 「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。三四郎は何か寓意でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、 「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、 「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。 「なぜ」 「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」  その日の夕方与次郎三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで降りて、 「どうだ」と聞いた。  次に大通りから細い横町へ曲がって、平の家という看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。はなはだ纏綿している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、また 「どうだ」と聞いた。  次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町はいって、木原店という寄席を上がった。ここで小さんという落語家を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また 「どうだ」と聞いた。  三四郎は物足りたとは答えなかった。しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。  小さんは天才であるあん芸術家はめったに出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。今からしまえに生まれても小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。――円遊もうまいしかし小さんとは趣が違っている。円遊のふんした太鼓持は、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物からいくら小さんを隠したって、人物は活発溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。  与次郎はこんなことを言って、また 「どうだ」と聞いた。実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。しかしその比較ほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。  高等学校の前で別れる時、三四郎は、 「ありがとう、大いにもの足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、 「これからさきは図書館でなくっちゃもの足りない」と言って片町の方へ曲がってしまった。この一言三四郎ははじめて図書館はいることを知った。  その翌日から三四郎は四十時間講義ほとんど半分に減らしてしまった。そうして図書館はいった。広く、長く、天井が高く、左右に窓のたくさんある建物であった。書庫入口しか見えない。こっちの正面からのぞくと奥には、書物いくらでも備えつけてあるように思われる。立って見ていると、書庫の中から、厚い本を二、三冊かかえて、出口へ来て左へ折れて行く者がある。職員閲覧室へ行く人であるなかに必要の本を書棚からとりおろして、胸いっぱいにひろげて、立ちながら調べている人もある。三四郎はうらやましくなった。奥まで行って二階へ上がって、それから三階へ上がって、本郷より高い所で、生きたものを近づけずに、紙のにおいをかぎながら、――読んでみたい。けれども何を読むかにいたっては、べつにはっきりした考えがない。読んでみなければわからないが、何かあの奥にたくさんありそうに思う。  三四郎一年生だから書庫はい権利がない。しかたなしに、大きな箱入りの札目録を、こごんで一枚一枚調べてゆくと、いくらめくってもあとから新しい本の名が出てくる。しまいに肩が痛くなった。顔を上げて、中休みに、館内を見回すと、さすがに図書館だけあって静かなものであるしかも人がたくさんいる。そうして向こうのはずれにいる人の頭が黒く見える。目口ははっきりしない。高い窓の外から所々に木が見える。空も少し見える。遠くから町の音がする。三四郎は立ちながら、学者生活は静かで深いものだと考えた。それでその日はそのまま帰った。  次の日は空想をやめて、はいるとさっそく本を借りた。しかし借りそくなったので、すぐ返した。あとから借りた本はむずかしすぎて読めなかったからまた返した。三四郎はこういうふうにして毎日本を八、九冊ずつは必ず借りた。もっともたまにはすこし読んだのもある。三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、きっとだれか一度は目を通しているという事実発見した時であった。それは書中ここかしこに見える鉛筆のあとでたしかである。ある時三四郎は念のため、アフラベーンという作家小説を借りてみた。あけるまでは、よもやと思ったが、見るとやはり鉛筆で丁寧にしるしがつけてあった。この時三四郎はこれはとうていやりきれないと思った。ところへ窓の外を楽隊が通ったんで、つい散歩に出る気になって、通りへ出て、とうとう青木堂へはいった。  はいってみると客が二組あって、いずれも学生であったが、向こうのすみにたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。三四郎がふとその横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃をたくさん食った人のようである。向こうは気がつかない。茶を一口飲んでは煙草を一吸いすって、たいへんゆっくり構えている。きょうは白地の浴衣をやめて、背広を着ている。しかしけっしてりっぱなものじゃない。光線の圧力の野々宮君より白シャツけがましなくらいなものである三四郎は様子を見ているうちにたしか水蜜桃だと物色した。大学講義を聞いてから以来、汽車の中でこの男の話したことがなんだか急に意義のあるように思われだしたところなので、三四郎そばへ行って挨拶をしようかと思った。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる。手の出しようがない。

anond:20240930173301

2024-07-22

事務室だけ涼しい

〇〇〇の自動車工場は酷かったなあ。事務室だけ設備がどんどんリッチになって、現場設備は熱い寒いで何も変わらなかったからな。作業員が休憩に使ってるエリア撤去して商談ブースに変更された。社員奴隷の違いって言うか。。。階級を感じたわ

2024-07-18

息子に盗難癖がありそうで気になる

買い与えてるものを全部把握してる訳ではないので明確には分かんないんだが、あんまり子に買い与えるタイプに思えない鋭利なハサミとか、年季の入った卓上手動鉛筆けずりとか、茶色の極太マッキー1本だけとか、息子が所持してて違和感あるものがちょくちょくあることがある。

鉛筆消しゴムは持ってておかしくないが、筆箱に入らない不必要使用済みの量や、1ケース(10本)で買ってるのに1本しかないデザイン鉛筆とか、違和感も感じる。

嫁は「買った記憶はないけど、それがどうしたの?」という感じ。嫁にも俺にも買い与えた記憶がなければこれはどこかから持ってきたもの私物化してるって話になるのだが、嫁はどうもピンと来ないらしい。自然増殖するものだとでも思ってるんだろうか。

息子に聞いたら「もらった」と言う。

からもらったかは分からないらしい。

もやもやする。

と思ったらこの間ケースなしのCDを持っていた。CDは全て新品で買い与えており、ケースなしのものはありえない。

息子はちょっとこだわりが強く、CDDVDプレイヤーに入れっぱなしなのを許さない。TV扇風機も寝てると消されるし、言っておかないと風呂場の乾燥勝手に止めてしまう。

なので必然的ディスクとケースの入れ間違いは発生しないし、常にディスクには収納場所があり、歌詞カードがある。ケースと歌詞カードだけ紛失するなんてことはない。

なのにディスクが剥き出しで置いてある。

(余談だが、これまで息子のこれを「きちんと管理する」ルールなのだと思っていたが、「自分定義した状態に戻す」ルールらしいと認識を改めた)

息子はこれも「もらった」と言ったが、すまん父はさすがにそれを信じられない。誰かのもの勝手に盗ってきたとしか思えない。

そもそも小学生メンタルで、盗ったものを正直に「盗みました」と言えることはないと思う。本当にもらったと思ってるのか、それ以外に許されそう(怒られなさそう)な言い方を知らないからそう言ってるか、どっちかなんじゃないだろうか。

嫁もその場にいた訳だが終始無言だった。二人の時にちょっと話したが、息子が盗ったとしての話はしたくないようだ。

とはいえ本人の証言の裏取り(くれた子の保護者に聞いてみる)などはしたくないようで、俺から聞こうかと提案したが止められた。

でもなぁ、これを見過ごすのは親として良くないと思う。

正直ハサミや鉛筆削りやマッキー職員室か事務室か、その辺の備品なんじゃないかと思ってる。名前書いてセロハンテープで留めてた跡があるし。先生方に嫁含めてどう思われてるかも気になってくる。

知人のお子さんは隣の席の子がすぐ人のものを持ってく子で困ってるとのことで、聞いてドキっとしてしまった。しかも友人が言うにはその子自体に「そうしなきゃいけない事情」みたいなのが感じられない普通の子だったとのことで、更にダメージを受けた。

という訳で子に盗難癖がありそうとなったらどうすればいい?

なお実際には嫁も息子もいないので幻覚です。

2024-03-30

新人時代トラウマを思い出したので吐く

この増田 https://anond.hatelabo.jp/20240328145307 を読んでいて、新人歓迎会トラウマを思い出したので書く。


新卒就職したのは、大手電機からリストラ分社され投資ファンドに売却された地方製造業…に、グループ内人派遣を行う人材派遣会社だった。

当時はリストラ分社化された直後で、まだ元グループ本社からの出向社員も残っていたし、元グループ会社看板も、営業網も使えていた。

それにに加えて、リストラ分社化された後で「これで迅速な意思決定ができて伸びるぞー」と言うお題目が信じられている頃でもあったと思う。

からか、当時入社するプロパー入社式はそれはそれは華々しく行われていた。


いや、華々しく行われていたのを、私たち派遣会社経由組は、敷地の隅にある人材派遣会社事務所のちっぽけか打合せ室の窓から見ていた。

プロパー新人記念写真撮影をしているのをみて、私たちはあっちいじゃないの?と少しは思うが、当時ピッチピチの新卒で疑問に思うこともなく。

派遣会社事務所から何かしら訓示を受けた覚えがあるが良く覚えていない。

簡単事務的な話だけだったので、そのまま配属先となる職場から主任が迎えに来て、職場へと向かった。大部屋式の事務室である

課長の所で軽く挨拶した後、課員に特に紹介されたりもせず、大部屋の端にガラス張りのパーティションで囲まれた「OA室」と呼ばれる部屋に連れて行かれ、ここがお前の席だと座らされた。

周りには同じく派遣できている人たちが数人いるが、みな黙々と仕事をしている。一応会釈はしてくれるが特に会話もない。部屋の中にはサーバと古めかしいブラウン管モニタがついたCAD端末がうなり声を上げている。

15インチスクエア液晶DELLの型落ちデスクトップを渡され、いきなり赤が入った原稿に従ってWord文書を直していくと言う仕事を振られた。

当時ピッチピチの新卒で今のようにくたびれていなかった私は、緊張して違和感を感じる暇も無かったというか、違和感を感じるような知識も無かった。


それから数日して、プロパー新入社員挨拶にやってきた。「全員集まれ」と声がかかって大部屋の中心にみんなで集まり、彼らが新人だと紹介される。実際に配属されるのは8月お盆明けからだが、と聞かされた。

何で8月なんですか?と、少しは話をするようになっていた主任に聞いたところ、彼らにはみっちり新人研修があるのだとのこと。

すごいね

グループ会社から分離したけど新入社員教育は合同で行って、元グループ会社本社にて集中的に研修するんだって

すごいね

そうして彼らプロパー新人新入社員教育を受けて、定時退社している間に、自分はみんなにシェアされる雑用便利人としての立場を明確にしていった。

忙しくなると投入され、ろくにスキルも身につかない雑用をやる。どの課に所属しているのかと言うことも曖昧だった。業務調整をする上司というもの存在しなかった上に、ひとヤマを超えると別の社員の忙しい案件に投入されるため常に長時間労働であった。OJTと言う言葉すら無かったが、仕事特性上、割り当てられた仕事が終わらなければ終わらない。やらずに放置しても誰か別の人がやってくれるわけではない。溺れながら仕事を覚えていくことになる。

このように同じ職場メンバーとしての一体感が生まれる事も無かったが、一つだけ一帯運用してもらえていたものがあった。それが「タイムカード押し」である。だいたい19時30分を回ると係がタイムカードを回収しに来る。彼にタイムカードを渡すと、私が自分で押さなくてもかわりにタイムカードを押してくれるというサービスである

いや、サービスしているのはこちらか。当時ピチピチの新卒であった私は、それが当たり前だと思って、深く考えなかった。いや、考えようとしなかった。


さて、この内容を何故標記増田から思い出すに至ったのかというと、積み重なった違和感が爆発したのが、新人歓迎会だったかである


時は流れて8月プロパー社員新人正式職場に配属された。配属されて行われるのが、新人歓迎会である

今までも全体の飲み会らしきものは行われているのを知ってはいたが、私がいる「OA室」の人間は誘われることは無かった。しかし、新人歓迎会忘年会だけは別らしく、出欠席の紙が回ってきた。

私は、これを自分も歓迎してくれる会であると疑わず、出席と記入した。会費は7000円であった。高い。正直、月給額面残業代込み174,000円からその金を出すのはかなり痛かった。痛かったが、仕方が無いと思った。

そうして、久々にリクルートスーツに身を包んで、会場に着いたところ、以下の様な事が分かった。

なお、記念品として贈呈されたそのハンドブックは「仕事必要から」と言われたので私は自分で買っていた。彼らの初任給は、私が当時付けられる限度まで残業を付けてもらうのよりも、一切残業せず3万円は高かったはずである

偉い人のよくわからない話を聞いて、乾杯して。新人代表のよくわからない決意表明を聞いて。なんか意味のわからない余興が行われていたのはぼんやりと覚えているが、途中でなんか気持ち悪くなり、料理も食わずに会場を抜けて家に帰った。

今なら、7000円も払ったのだからせめて夕飯代ぐらいは浮かしてやるぐらいの図太さは身につけたが、当時ピチピチの新卒だった私にはそんなものはなかった。


ちなみに、頭の中をぐるぐる回っているぐちゃぐちゃを吐き出して落ち着けたのはインターネットであるもっと具体的に言うとこの増田はてなAnonymousDiaryのおかげである。ここで無茶苦茶愚痴を書いて、みんなにそんな会社やめちまえよって同情してもらって、やっぱりおかしいよね?おかしいよね?、と整理ができた。

そうして、スキルを磨いて、勉強して、戦略的に行動する事を心がけるようになった。

みなさんのおかげです。どうもありがとう。当時の増田がどれぐらい残っているかは、まぁ、わかんないくらい昔の話ですが。


さて、その後だが、元グループ本社ブランドが使えなくなり、営業から外され、元グループ会社格安で担っていた間接機能自分でやらなければならなくなり赤字に転落。

グループ本社から出向で在席していた人々…つまり売却に至っても本社転籍させなかった優秀な人々…が徐々に去って、さらに買収した投資ファンドからクビ切り役人みたいな連中が送り込まれプロパー社員ボーナスが年3ヶ月分吹っ飛ぶ、労働組合が元グループ会社組織から外されて見捨てられる、福利厚生が自社独自に切り替わる、など労働条件改悪、激変が続く事になる。

当然元グループ本社と共同で半年以上かけてじっくり行われる新入社員教育なんてものは翌年以降は蒸発しなくなった。新人は極簡単ビジネスマナー講座と図面の読み方みたいな軽い教育を受けて入社後数週間で職場配置されてくるようになった。

同時に、派遣社員が増える事になった。それも元グループ本社系列グループ内向けの派遣会社(つまり私の所属会社からではなく、他の派遣会社から人材が投入される。金は無いが、今までグループ本社機能依存していた部分を自社化しなければ行けなかったからだろう。

さら賃金が高い社員を中心に退職推奨と言う名のリストラが行われ、その代わりに派遣社員が加わるという事が特に現場系で進行する。更にラインまるごと海外EMSに出されるようになっていった。

しかし、プロパー社員派遣社員を切り分けて考えると言う企業体質や文化はそう簡単に変わるわけもなかった。妙な壁がずっとある。お給料から命令系統食堂の食券価格や給茶機の掃除当番まで妙な区別が残り続け、それが原因でか、不合理で業務効率が上がらないことおびただしい形だった。


ただ、そうして、会社は一応は黒字になった。筋肉質になったと宣伝しているがリストラ黒字になるまでやるからリストラなのであって、黒字になるのは当たり前である

そのタイミングで、元グループ会社本社最後まで持っていた20%程度の株式を完全に売却する事になった。完全に手切れである。私が入社して6年ほどが立っていた。

そこで、私が所属している派遣会社も完全に撤退する事になった。元グループ本社グループ内向け派遣会社であるからである


最後に、その後私がどうなったかを書かせてほしい。

かつて敷地内にあった派遣会社事務所はとっくになくなっていた。同期もみんないなくなっていた。

そして、私に提示されたのは、派遣会社から派遣元の会社正社員として転籍しないか、今と同じ仕事を続けられるよ、という誘いだった。

もちろん、断った。


会社側は、まさか正社員になれるのに断ってくるとは思ってもみなかったようである。それはそうだ。特に人事部門などは、痩せても枯れても元大手企業工場地元で最も安定した職場で誰もが就職したがる、と言う御山の大将であったからだ。

から自分たちの仲間に迎えてあげることが最高の報酬だと思っていた節があった。だからせっかく人事に交渉して入社できるようにしてやったのに恩知らずが、みたいなことを言われたこともあった。

さて、断った結果どうなったかとと言うと、派遣会社としてはもう派遣業を拡大していないこともあり同じ地域では仕事がないといわれた。そのため別の地域に転勤になるがよいか、と。もちろんOKと言った。願ったり叶ったりだ。

そうして新しい派遣先を探るからと言うことで、改めて所有している資格などを申告せよという事になった。コツコツと勉強してとりためた資格などを開示した結果、ちょうど人手不足タイミングと重なり元グループ本社のR&Dに派遣が決まる。

引継ぎ屋マニュアル作成をこなしながら異動の待機している間に、こんどはなんと所属派遣会社グループ本社吸収合併される事が決まった。

本社のR&Dに派遣ではなく異動という形で、あっと間にグループ本社正社員になることができた。神風が吹いたと言える。


そうして今ではそれなりに暮らしているのだが、そんな今でも「新人歓迎会」と言われると、あの悪夢新入社員一年目が、悪夢ホテルでの夜が頭をよぎるのである

からみなさん、相手所属がどこだとか考えずに新人には優しくしてあげてほしい。あなたにとっては毎年来る新人かもしれないけれど、新人にとってはたった一度の新人時代なのだから

また、新人の皆さんも、なんかおかしな事があっても人生何事も塞翁が馬である。よいこともあれば悪い事もあるが、前向きに、やってきたチャンスを掴んで離さない程度の握力を常に鍛えておく事ができれば、道は開いていくのである

頑張ってほしい。

2024-03-27

中学校教員だけど、仕事休んで旅をした

私は中学校教員だ。

どうしても心苦しく逃げ出したくなったので、仕事を休んで旅をした。

その顛末を話したい。

休むことにした経緯

大学時代、親(同じく学校教員だ)に強く勧められなんとなく教職課程の受講を始めた。

なんとなく高校教員になろうと思っていたが、何の因果教育実習中学校に配属された。

実習中は忙しかったものの、生徒が人懐っこくこちらに近づいてくれたことが非常にうれしく、授業以外でも彼らとの交流(体育祭練習に一緒に参加するなど)に楽しさを覚えた。

この感覚が忘れられず、私は中学校教員になった。


着任当初から雑用が大量に入り、忙殺される毎日だった。

これって本当に教員仕事か?と思えるような事務作業がやたらと多かった。

また、「校務分掌」という名目でやたらと多くの業務が割り振られた。日本年寄りは何でもありの価値観蔓延しており、年齢の低い私には特に業務が集中した。

これらの業務事務職員仕事ではないらしい。事務補佐員は人数が少なく短時間しかいない。また、個人情報を含むものの取り扱いができないため依頼できることがほとんどない。

授業準備をしたくても事務作業で全く手に付かず。

やっと作業が終わり(もちろん時間外)ヘトヘトになったところで始めるほかなかった。

建前では休憩時間はあるらしいが、その時間業務が振ってきて休むこともできず。

おまけに最近アクティブラーニングICT重要性が叫ばれており、授業の事前及び当日の準備はそれどころではない大変さがあった。


それでも、教育実習の時と変わらず、コミュ障の私に偏見を持たず純粋な心で関わって、笑顔を見せてくれる生徒たち(教室に来れない生徒にも)に元気づけられていた。

体育祭は大嫌いで、私は自チームを応援する気は起きなかった(自チームカラーの服を着ている先生が目立ったが、私はどのチームにも関係ない色のものを着ていた)が、練習は一緒に楽しんだ。

生徒に交じって競技を楽しむのもまた一興。一緒に生徒の中に混ざるだけで生徒は喜んでくれた。

授業はただ真面目にやるのではなく、時にネタを入れると生徒が反応してくれてうれしかった。

アイマス(担当アイドルの話とか)をはじめとしたソシャゲネタ鉄道ネタ自虐ネタ淫夢ネタちょっと不謹慎ネタなどを入れるだけで笑いが取れた。

定期テストも、かなり完璧主義的に作ったにもかかわらず、その結果を見て教えたことをしっかり身に付けてくれたこともうれしかった。

勤務時間外も、次はどんな授業をしようかと自然に考えていた。


しかし、どうしても大変なことは大変で、それが私を疲弊させた。

例えば、生徒の失くしもの(学校からの貸与品)の捜索を命令され、どうしても見つから教頭に報告すると「知るか、自分で何とかしろ」の一点張りで取り付く島もない。

なければ学校に余りはありますか、それとも購入は可能ですか、と聞くと「お前さぁ、それ教育者としてやることか!?」と怒鳴られた。

また、目標申告書(全国でやっている)で下っ端は記入不要の項目も「制度上は記入義務はないがみんなやっている」と強制された。

(余談だが、記入例に不登校生徒減少の話があったが、なぜ不登校は生徒自身選択なのにそれを無視して無理やり連れだす必要があるのか、それが原因で自殺されたら本末転倒ではと思った)


あいいやこんなこともあると思いつつ耐えていたが、こんな出来事があり、ついに限界が来た。

生徒が下校した後、いつも通り雑用に追われていたが、なぜか隣の校舎の窓に火が見えた。

他の先生方に相談したところ、無関係な私が急行するよう言われた。するとなぜか鍵が閉まっていた。

鍵を開けると、面識のない生徒数人がおり、その隣には火柱が上がっていた。

どうやら裏側から侵入して火遊びをしていたらしいが、すぐに水をかけ消火した。

事情聴くと「これは作業だ」「面倒だから仕方ない」「効率的からやっている」と。

今後こういったことはやめるよう言えば「燃料は自腹だ。100円の自腹がもったいない」と反論。さすがにこちらもキレて「命と100円どちらが大事なんだ」と言って無理やりやめさせた。

大事案なので当該生徒が在籍する学年に報告すると、ある先生は「あー…最悪のメンバーがそろってる」と。

管理職に報告するとこちらの責任のあることではないのにやはり怒鳴られた。「どうするか自分で考えろ」「早くしろ」とわけのわからないことを言われ。

その後校長教頭の2名から時間のお説教

教頭から「怒るのはあなたを信頼して成長してほしいからだ」と言われたが、(わざわざ応募して選考突破した)管理職と下っ端は意欲が違うし、成長したくないので信頼せず放置してくれと思う。

校長は「生徒の失敗を大目に見たらどうか」と状況を理解せず、面倒をこちらに丸投げする発言


なぜ私だけこんな目に遭わなければいけないんだと思った。

気づくと、どうすればこんなことから解放されるだろうと思い色々検索していた。

隣の先生にこれを見られ、「行動に出る前に管理職相談した方がいい」「教頭は口調がきついから真に受けないほうがいい」「私も色々失敗した」などといろいろ慰めの言葉をくれた。

私と同時に着任した先生などにも相談に乗ってくれた。「あなた完璧を目指そうとしてたんだ。60点でいいのでは」とも言ってくれた。

また、該当生徒の指導はその生徒が在籍する学年に依頼できることになり、非常に助かった。


何もかもやる気を失った。大好きな曲を聴いても拒否反応がすごかった。

テレビをつけると、時代劇切腹シーンが出てきてますます気分が沈んだ。

通勤途中に外国人観光客を見ると、なぜ日本人だけ労働に苦しまなければいけないのかと思った。私も自由気ままに旅行したいのに。

(日本労働法規に甘く、バカンスもなく権利行使がしにくい、下手すると同じ立場労働者が権利行使を妨げてくるのはなぜだろうか。一説には資源の少なさと正社員制度が原因だというが…)

その後の数日、外出したいとも思わなかった。


ふと思いついた逃避行

そういえば、今までも出勤できていたものの、疲れというかなんとなく休み明け出勤したくない気分になることがしばしばあった気がする。

しかし今回はその気持ち特に強かった。そんななか、ベッドの上のぬいぐるみが私に話しかけてきた。


渋谷凛「もう休めば。疲れてるでしょ」

島村卯月「早く休まないと…大変です!」

本田未央「よく頑張ったねプロデューサー。思い切って休んじゃお!」


あれ、苦しいときは休めばいいんじゃね?なんでこんな簡単なこと思いつかなかったんだろう。

今まではこんなこと考えつかなかったが、思いついた途端肩の荷が一気に下りた気がして、気がすごく楽になった。

そういえば、小学校の頃の私は皆勤至上主義で、ひどい風邪でも登校していた。

高校でそのおかしさに気づき少しでも体調が悪ければ欠席するようになったのだが、なんでこの解決法を忘れてしまったんだろう。


だが、この計画は勤務校はもちろん、何かの機会で口外するリスクのある同僚には当然言えない。

一見仲間にも見える両親にも口外してはならない。

なぜなら母親仕事を、父親世間体神聖視しているからだ。

母親祖父(母方の曾祖父)が職を失いつまらなそうにしていたのを見て、仕事があることが素晴らしい、働かせていただいていると思うようになったそう。

まり、「クビになりそう」→「ならないようにどんなことでもする」という感覚の持ち主だ。

父親偉そうに上司にも独りよがりイデオロギービジネスマンとしての心構えを力説していたらしい(それで啖呵を切って職を転々としていたらしいが)。

自分の思い通りにならない、またはその仕事責任を120%果たせないなら辞めるべき」と思っているらしい。


その日は特別な準備を要する授業や前述の生徒の指導も予定されており、休んだら迷惑かと思ったが、どうでもよくなっていた。

となると、どのような手段で休もうか。

休むのは電話すればいいのは知っているが、真っ暗な家で引きこもっても体調回復絶望的だろうと思った。

じゃあ逃避行してしまおう。せっかくだし最近行っていない江ノ島に行こう。


ふと気になった。この休みはどういった扱いになるのだろうか。休暇の一覧表をみると、「病気休暇」があった。

利用条件は「ケガや病気で勤務できないとき」とのことだが、「病気」の詳しい定義がない。

ということは、「精神的に辛く体調がすぐれない」(これが悪化したものが「うつ病」「適応障害」などの精神疾患)も問題ないはずだ。

日数でいろいろ条件も変わるらしいが、今回の場合はまずは電話一本で、正式手続きは出勤できてから問題ないらしい。

ところで、病気休暇を取得している期間は病気の療養に専念しなければならない。

逃避行精神の不調が回復するのならそれも療養であるから問題なく、むしろ進んで行わなければならない。

病気休暇が使えないなら年次有給休暇の利用、それもダメなら(給与が減るが)欠勤扱いでもよい。いずれも無断欠勤よりずっとマシだ。


1日目・江ノ島に行った

今日は出勤しなくていいんだ。そういうつもりで髭剃りと歯磨き、自宅の風呂掃除トイレ掃除を念入りに。

教員労働環境のブラックさが世に知られ叩かれ出したことから働き方改革の一環で電話は始業時間までつながらない。

始業後に連絡すると迷惑だろうから自分所属する学年団への連絡手段(こちらは連絡時間制限特にない)があったので、先にそちらに体調不良の旨連絡した。

学年団の先生方(原因となった出来事を直接は知らない人含め)は「ゆっくり休め」と言ってくれた。

「次の日も厳しいかもしれない」と続けて言えば、「好きなことをしてしっかりとリフレッシュしなさい」とも。事情を知っているのかな?

また、始業時間直後には勤務校に電話し同様のことを伝えた。

元気のない声で、やる気を出そうにも空回りしている雰囲気を出した。

何の問題もなく休暇が取れた。休暇届提出は次回の出勤日でいいらしい(説明もその時するから急ぐなとのこと)。


混雑したバスが来るいつもと変わりないバス停。そこに私はとてもラフな出で立ちでいた。

家を出発する際は、勤務するときと同等の服装だったが、バス停近くの隠れられる場所で着替えた。

どんなラフ恰好って?それは…

本田未央ちゃんフルグラフィックTシャツ(二次元コスパ)を着てアロハシャツ羽織

本田未央ちゃんスポーツタオル首にかけ

本田未央ちゃん腕時計(キャラアニスーパーグルーピーズじゃないよ)を左腕に

本田未央ちゃんリストバンドを右腕に

本田未央ちゃんハンカチポケット

本田未央ちゃん渋谷凛ちゃん島村卯月ちゃんぬいぐるみカバンしま

・八宮めぐるちゃんライブ(空は澄み、今を越えて。他)記念のキーホルダーカバンに付けた。

どうだ、カッコイイだろ。


普段通勤時間があまり変わらないので混雑がストレスになるのは変わらない。

まあすぐに解放されるしいいか、と思っているうちに新宿駅に着いた。

ATMお金を引き出し、藤沢までの切符ロマンスカー指定券を購入(本当は特急券不要快速急行でもよいのだが、せっかくなので…)。

江ノ島方面ロマンスカー夕方までないとのことなので、相模大野普通電車に乗り換えることにした。

指定列車まで時間があるので新宿駅周辺を散策

横断歩道信号待ちをしていると、知らない人からサイエントロジーかい宗教団体のチラシをもらった。すぐ捨てた。


コンビニで酒(ほろよい桃味)とつまみを買ってから(車内は)滅多に人が来ないところなんで、そこでしこたま酒を飲んでから(デレステを)やり始めたんや。

飽きたので、Amazon大崎甜花ちゃんフルグラフィックTシャツポチっと購入。送料込みで7,321円也。

小田急線を乗り通すのは15年ぶりだ。複々線区間代々木上原向ヶ丘遊園まで伸び、列車種別構成の大きな変更があり、準急緩行線走行するようになったらしい。


藤沢に着いた。片瀬江ノ島まで行っても江ノ電を使ってもよかったが、せっかくなので大船まで戻る。

乗り換え専用改札があった。こういう改札は利用区間制限されないICカードしか通行できないものだが、聞いてみるとICカードとここまでの切符の組でも通れるという。

ここまでの切符を入れ、すばやくICカードタッチすれば通行できた。ちなみに、新幹線乗り換え口でも似たようなことができるらしい(クレジットカードEX-IC不要)。

ここから神奈川ジェットコースターとも評される、湘南モノレールに乗車。

強烈な地響きとともに列車が入線。駅壊れるぞ。

大船を出たばかりなのに猛スピード。おい、右に葬儀場があるぞ。車両棺桶じゃないぞ。

思ったほど揺れなかったが、心配なのは走行高度が低すぎる点だ。大型路線バスかぶつかるのでは。

湘南深沢から先はさらに本気を出した。70-80 km/hは出したか。これに匹敵するのは東京モノレールの一部区間(昭和島付近)だけだ。

15分程度で終点湘南江の島に到着。テラスアイドルたちと記念撮影


そのまま南に歩き、湘南海岸公園に。やることがないので近くの岩場で昼寝。

雲が動き日差しがまぶしいので、目隠しをした。時に涼しく時に熱くなるがこれが気持ちいい。

1時間ほど寝たら、桟橋の方を覗いてから15年ぶりに新江ノ島水族館へ。

岩場を歩いたり、飛び込み泳ぐペンギンさんが人間言葉を話せたら何を言うのか、不謹慎セリフを考えると非常に面白い

最後物販店くじ引き。2等が当たり、店員さんがハンドベルを鳴らした。後ろから拍手。恥ずかしいだろ。

景品は大きなイルカぬいぐるみだった。


江ノ島にも行った。

時間が遅いので頂上を経由してその奥の海岸洞窟だけ見た。

恋人同士が鳴らす鐘らしきものの前で、本田未央ちゃんと一緒に記念撮影

気づかず徒歩で戻ったのだが、どうやら船で江ノ島大橋のところまで帰れたらしい。


時間が足りず、江ノ島シーキャンドルやそのまわりの施設群、しらす丼は手付かずだった。また今度行った時味わおう。


帰りは江ノ電鎌倉を経由。

江ノ電は意外にもVISAタッチ決済による運賃収受を行っているらしい(決済端末は改札内なので、一部改札は不正通行検知装置を切っている)。

日本の改札は専用の券を駅などで購入し、機械に通す方式を取っており、欧州一般的QRコード付きの切符任意場所印刷して通行するようにするのは難しいとのこと。

そこでVISAタッチ決済による運賃収受が導入されたが、おそらく江ノ電日本で2-3番目あたりには早く導入したかと思う。

そんななか、また担当アイドルが話しかけてきた。

島村卯月「本当に休めましたか?もう一日休んだ方が…」

渋谷凛「ねぇ、まだ疲れてるでしょ。明日も休めば」

本田未央今日は楽しかったね!ねぇねぇ、明日も一緒にどっか行こうよぉ!」

よし、明日箱根へ行こう。


2日目・箱根に行った

勤務校と学年団に連絡した。2回目なので良心の呵責は全くない。

電話教頭ではなく事務職員が取るため、こちらの事情は知らない。「はい分かりました」で終わり。


汗で汚れるのだから昨日と同じシャツは着れない。

そこで、今日アロハシャツの下には乙倉悠貴ちゃんTシャツを。


いつものバス停に行く途中、ネームホルダーが落ちていた。手に取って見ると近くの幼稚園のものだと分かった。

グーグルマップでその幼稚園電話番号を調べ電話をかけると、「どこに落ちていたのですか」と聞かれた。近いので「そちらに持っていきます」と伝えすぐに向かった。

その幼稚園に着くと、ちょうど登園時間かぶっており保護者子供を預けに来ていた。

乙倉悠貴ちゃんTシャツ丸出しの男はロリコン扱い間違いなしなので、アロハシャツボタンを閉めて事務室へ。

対応した職員さんは、電話に出た人とは別のようだが、「これ落ちてました」と言えば「ありがとうございます」で終わり。さっさと退散。


暑いので路地裏に入って下着を脱ぐ。肌の上に直接乙倉悠貴ちゃんがくっついてきて興奮する。

昨日歩きすぎたのか、右足小指に水ぶくれが。

昨日よりかは早いが、それでもまた出発が遅れてしまった。

今日バス電車を乗り継いで新宿へ。今日小田原方面に向かうのでロマンスカーも多く走っている。

なんと小田急自動券売機クレジットカード対応していた。箱根湯本までの切符特急券を買うと、なぜか乗車券小田原箱根湯本のものしか出てこなかった。

仕方ないので隣の券売機新宿小田原切符を購入。

小田急の改札は切符を2枚重ねで投入できるが3枚重ねはできず、しかたなく新宿小田原切符特急券を投入。箱根湯本到着後有人改札事情を話すことにした。

今日セブンイレブンに行き酒とつまみを買い乗車。今日は酒2本(ほろよい桃味とぶどう味)。

電子レンジによる加熱が必要だが温め忘れてしまったものがあった。まぁ生で食べて腹を壊せば休みを伸ばせて都合がいい。

車内でつまみを全部食べ終わってからPermalink | 記事への反応(12) | 13:12

2023-12-12

教育委員会最後に取り組んだ課題 <其の一>


約三ヶ月前、社会人生活区切りをつけた。当方は、はてなユーザーの中でも高齢である一般的な定年はとうに過ぎている。社会人として40年以上生きてきて、得られた知見といえば……大したものはない。

ただ、今回どうしても書き綴ってみたいことがあり、筆をしたためることにした。書式については、ほかの増田の方に合わせるものとする。難しい漢字も、できる限り平仮名とする。

このエントリは長い。ゆっくり読んでいただけるとありがたい。

書き上げたのは本日12/12だが、推敲関係で五回に分けて投稿する。土曜日には終わるだろう。

私の教員としてのキャリアは、都内にある中学校から始まった。大学を出てすぐだった。今思えば懐かしいが、あの時代に戻れたとしても今の方がいい。時代は進んでいる。

あの当時はアナログだった。電話はあるが、パーク保留(1機で複数保留ができる)といった機能はないし、パソコン事務所に1台あるかないかだった。各学校コピー機はあったが、今と違ってコピーされた物のコピーは悪手だった。印刷すればするほど色が薄くなる。濃淡調整機能などあるはずもなく。

学童についても、今に比べれば悪ガキがたくさんいた。今の子どもに比べると、暴言暴力が明らかに多い。「人は教育を受けることで初めて人間になる」というのは、初等教育学のテキストにある基本的な考え方である

さて、昔ではなく今の時代を観ていたいのだが、心がどうしても時代を遡ろうとする。この日記表現したいことは、今から約十年前の出来事である。この度日記にまとめたのは、教委事務局に勤めていた時に最後に取り組んだ仕事ひとつである。残念ながら、教育のものに関することではない。※当時の関係者は全員退職している。

要約すると、某地方自治体にある教育委員会の中に社会教育課というのがあった。その部署というのが、区役所の中のいわゆる問題のある職員が集まるところだった。区内の教員指導する部門の長をしていた頃の私は、すぐ近くで醜い言い争いや、低次元行為がなされているのを幾度となく目の当たりにした。

彼ら彼女らの言動には、ほかの教委職員も腹に据えかねていた。そして、ある年を境として、何度も本庁と協議交渉を重ねた結果、教育委員会という組織から社会教育課を放逐することができた。

本当に苛々とした日々だった。その分、悲願が叶ったと知った時の喜びは至高だった。今でも解放感が脳裏に蘇ってくる。

これから私が話すことは、人によっては相当厳しい。負の次元に堕ちた地方公務員の姿を垣間見ることになる。それでもよければ、読み進めていただきたい。

私はもう経済社会を完全に引退している。書き綴る出来事もだいぶ前のことだから、元いた組織迷惑にはならないだろう。何かあった場合は、私が責任を取る所存だ。

トピックについては、1.から6.まで用意している。具体的な職員エピソードは2.~5.である。6.において、社会教育課との決着について書かせてもらう。



1. 一部署としての教委事務局社会教育

教育委員会(≒教委事務局。教委。以後は同じ意味として扱う)とはどんな組織か? というと、早い話が地方自治体学校教育に関する意思決定事務企画・調整・一般的管理行為)を行う組織である

地方自治法昭和22年法律第67号)

第180条の8 教育委員会は、別に法律の定めるところにより、学校その他の教育機関を管理し、学校組織編制、教育課程、教科書その他の教材の取扱及び教育職員身分取扱に関する事務を行い、並びに社会教育その他教育学術及び文化に関する事務管理し及びこれを執行する。



教育長が責任者となって所掌事務教育改革・首長への提言その他を総理し、教育委員が集まる会議議会のようなもの)で可決された教育内容が自治体内の学校において実施される。

かつての戦争の折、行政暴走行為によって学校教育が歪められてしまった経緯がある。地方行政主体から教育機能を切り離して、教育活動全般に関する権限を有する行政委員会としての役割を与えた。

実際のところは、市区町村本庁舎の一部を間借りしている教委が大半である役所の中に多くある部署ひとつとして位置付いている。

なお、本舞台の教委については、自前の事務所を有している。

市区町村場合人員配置例を以下に示す。

教育長)…都道府県教委が教員出身者の中から有望者を選定

      (地域が推薦する場合もあり)

教育委員)…市区町村地元有識者功労者を推薦する

指導課)…都道府県教委が教員の中から査定者を人事異動させる

学事課)…指導課のような教職員出身者と市区町村職員による合同チーム

社会教育課)…上に同じだが、教員出身者がいないこともある

文化芸術課)…〃

(総務課その他)…ほとんど市区町村の一部署と変わらない

学童クラブや児サポ)…教委が有望者の中から採用・選定をして運営

 ※以上、部署名などはできる限り一般的名称使用した

そういうわけで、私の場合上記でいうところの指導課(各学校指導方針を所管)や学事課(学校事務を所管)に籍を置いていた。あれは、新卒教育現場に配属になって十年少々だったか。ある年の人事異動で、そろそろ別の学校に異動になるかと考えていたところ、教委事務局への配属を告げられた。

それから数十年、学校現場に戻ったのは二度だけだ。一度目は中学校教頭として、二度目は校長として。その前後にも、私はやはり教委に籍を置いていて、より高い視座から教育活動のあり方を見直すことや、新しい学校を作る、あるいは廃止するといった仕事に取り組んだ。

最後課長職員としてキャリアを終えた。その後は、いわゆる名誉職といった扱いの教育仕事に数年だけ取り組んで、先日正式にこの仕事から引退した。

タイトルにある出来事は、社会人生活の中でも相当後半にあたる。都内にある中学校教頭としての務めを果たした後、ある年の人事異動で教委事務局課長職として配置された頃の話である。期間としては三年間だ。

教委事務局の中でも、ほぼ真ん中あたりの奥側に指導課長である私の席があった。「ようやくここまで来たか」と思いつつ、課員全員が見渡せるデスク腰掛けようとした時だった。言い争う声が聞こえるではないか。何時かは忘れたが、おそらく正午前だった。

社会教育課の事務スペースで、複数職員が言い争いをしていた。若い子と、中年ほどの男性女性職員だった。どういう構図かは全く覚えていないが、低い次元の話をしているのはすぐにわかった。公務員以前に、社会人として使うべきではない語彙や、極めて高圧的な物言いが見て取れた。

話し合い(口論)を少しばかり眺めていたが、最後男性職員女性職員から詰問を受け、ちょうどかかってきた電話を取る形で逃げて終わった。若い職員は、舌打ちをしてその場を後にしつつ、コピー機が設置してある台を蹴っ飛ばし事務室を出て行った。

『なんだ、こいつらは?』

心の中でそう思った。これまで配属された教委事務局の中に、こんな連中はいなかった。この市区町村の教委事務局で働いていた時もあったが、社会教育課は別のオフィスにあった。

社会教育課、という部署名は伝統である霞が関にも同名の部署があるほどだ。本来であれば、歴史と実績のある部署のはず。では、なぜこんな連中が……? と思って気になったが、その時は時間無駄であると考えた。

だが、そういうことにならなかった。社会教育課は、私のいる課長から10mも離れていない。しかし、毎週のように何度も何度も、大きい声で怒鳴るわ、悪態をつくわ、イベント行事問題を起こすわ、用事で来られた区民を怒らせるわで、こちらとしても仕事がやり辛かった。

私と同じ教職員サイドの職員に詳しい者がいた。この教育委員会(T区とする。豊島区関係ない)の社会教育課について聞いたところ、なんとなく経過がわかった。

社会教育課は、元々別の離れたところに事務所があった

・その場所ではひとつの課として独立していたが、不祥事が多かった

監視意味も兼ねて、本庁総務部の人事課が教委事務局の中に移した

といったところだった。この時は、まさかこの連中のためにあれほど頭を悩ませることになるとは思わなかった。

ここから先は、個別職員の話になる。2.以降に譲りたい。長く詳細に書いても読者が不愉快になるだけだ。できれば各三千字以内でトピックを終わらせたい。

話があちこちに逸れることも多々あろうが、何卒お許しを願いたい。

(次part)

https://anond.hatelabo.jp/20231213191557

2023-10-16

5年ぶりに色がある可愛い服を買った

私の私服基本的に全身真っ黒。友達にもよく言われる。黒ばっか着てるじゃんって。

だって本当は可愛い服、着たい。だけど試着室で自分を見る度に、あの日のことがフラッシュバックする。

5年前、高校生だった私は、友達と遊ぶために当時いっちばん可愛いと思っていた服装で出かけた。

フリルベビーピンクみたいなトップスミニスカート白のふわふわコートも着て。

で、想像できると思うけど。痴漢盗撮ダブルパンチ。車内では密着されて匂い嗅がれて?首に鼻息、ていうか呼気があたるの。キモすぎるでしょ。

さらにその後総武線の長いエスカレーターを登ってる時、太ももに何か当たった感覚があって振り返ったら、

ビデオモードスマホ画面と、なっさけない声出した中年おっさんと目が合った。

まさか振り返られるなんて思ってなかったのかな、浅はかだけどそのおっさんはめちゃめちゃきょどって、焦って、逆行して駆け降りようとして足滑らせてエスカレーターの半分くらいの距離を転げ落ちていった。

当時の私が出せた声は、「だっさ。」って震える声で言うことしかできなかった。その中年絶対痛くて立ち上がれないだろうに、ど根性ですぐに起き上がって走って逃げてった。ダサいやつって逃げ足速いんだね。

すぐに駅員室に行くべきだったし、警察に行くべきだった、っていうのは落ち着いてものを考えられる今だから分かる。でも当時の私はできなくて、親にも言えなくて、震える声で親友電話して、それで終わり。

それ以降、私は可愛い服を買うのも、着るのもやめた。

絶対に舐められないように、ターゲットにならないように、強そうな服を着ることにした。ロングスカートは靴突っ込まれ盗撮されても気づかないからやめた。ミニスカート電車の席の向かいから撮られるからやめた。ちなみに、今これを読んでる、盗撮みたいなダサいことしてる奴らに言っとくけど、スマホが不自然に垂直だったりこっちに向けてるの全然気付いてるからやめろ。靴とか傘とかに仕込んでるやつとか論外。人間として下劣で終わってる行為していることに気づきなね。

そしてJKブランドをとっとと脱ぎ捨てて、5年経ったやっと今日可愛い服を久々に買った。色のやつ。可愛い。もこもこ、っていうか冬っぽくて可愛い

この5年で増やした黒系の服とも合わせやすそうだし。やっと着れる。友達と一緒に買ったから。

もし、こういう被害に遭ってる子達がいたら言ってあげたい。めちゃくちゃ時間はかかるし、忘れるなんてことは絶対にない。でも必ずしっかりと向き合って克服できる日が必ず来る。私が言ってあげる。そういう被害に遭いやすい服を着てた自分が悪いんだ、なんて思わないで。100億%、やった方が悪い。どうして公共の場自分の欲一つも制御できないやつのことを配慮してあげなきゃいけないの?被害に遭ったあなたに落ち度なんか何もない。

いかもしれないけど、絶対に声をあげてほしい。ちょっとでも証拠があったらすぐに交番とか駅員事務室に行ってほしい。犯罪者たちに「あ〜捕まりそうなスリルがやめらんないんだよな〜」なんて甘っちょろいこと絶対に思わせない。やったら捕まる、ってこと、もっと周知させなきゃいけないから。私がもしあなたと同じ電車にいたら、絶対に一緒になって戦ってあげる。絶対に見て見ぬふりも、聞こえぬふりもしない。だからあなた勇気を出して、助けを求めてほしい。

あなたに自信を持って、安全に可愛くて素敵な格好をしてほしいから。だからがんばろね。

2023-08-22

anond:20230821145731

増田が力仕事している間、女は冷房の効いた事務室おっさんセクハラされるんだよ。

そういうのを両方やめようっていう話。

2023-07-09

小学校に住んでた同級生

自分小学生の時、小学校に住んでた同級生がいた。

 

小学校の近辺に住んでたでもなく、

廃校になった小学校に住んでたでもなく、

まんま当時現役バリバリ小学校の1階に住んでた。

 

そいつは下校時間になると、そのまま1階に降りて

一番隅の事務室?みたいな所に帰るだけ。

 

特に田舎という訳でもなく、

割と都心寄りのそこそこの知名度のある学校だと思う。

 

今でもそんな都市伝説みたいな奴いるのだろうか。

2023-05-29

恋愛に発展しないじれじれ感が好き


わかるだろうか。学校でも、職場でも、趣味の集まりなんかでも、恋愛的な物事に一切関わらなかった人は少ないと思う。自分から恋愛をやってみるとか、アプローチを受けるとか、ほかの人が恋愛してるのを外から見るとか、みんなも体験してきてると思う。

私は企業での契約社員勤め(夫、子どもあり)の身分だけど、職場でそういうのを見てきた。その中でも、「恋愛に発展する可能性がない」ような、そういうシチュエーションがなんだかいいと思う。

今の私は、そういうのを体験している。ちょっと話してみたい。



その人と最初に会ったのは、会社イベントでの動員だった。地域貢献をするタイプ会社で、敷地内で年に一度だけ出店をする。去年、その中のアトラクションひとつで受付の仕事をすることになった。一緒の長机に、私とその人(Nさん)と、後は入社して半年女性と、一番奥側に管理責任者の人が座ることになっていた。

イベントの本番前日の準備の時、Nさんを初めて間近で見た。一緒にアトラクション(風船釣りとか輪投げとか)を作っている時に、とても頼りになって、雑談を振ってくれて、体力もあって……。私と同じ30代のようだった。少し年上。独身

その時に思い出したんだけど、私が契約社員として採用されたばかりの頃、他機関への申請もの仕事があって、Nさんと絡んだことがあった。必要な添付文書がわからなくて、その時に丸投げみたいな感じ(○○の補助をもらうために必要データがほしいetc)で別部署のNさんに電話で依頼したんだけど、2日で取り寄せてくれた。

いい人だと思った。直接Nさんの部署に行ってお礼を言った。私は既婚だから、ほかの女性と違って恥ずかしがらずに堂々とNさんと話ができる。

これがもし独身同士だったら、お互いに廊下で話をしてるだけで噂になるかもしれない。でも、私は結婚指輪をしてる。普通に雑談してるだけだと周りに疑われることはおそらくない。

イベントの準備が終わった後は、Nさんとちょっとだけ話をした。落ち着いた雰囲気で、目力が強くて、やっぱりいい人だなと思った。私の夫は、知り合いだった頃も、友達だった頃も、付き合っている時も、結婚してからも細かい気遣いをしてくれない。話もあまり聞いてくれない。子どもっぽいところがある。

ほかの準備に参加してたスタッフのうち、学校出たての若い子も、私より年上の人も、Nさんと話す時に明らかに感じが違った。機嫌がいい。声が高かったり、逆にすごく低かったりしていた。Nさんの個人情報はあまり書けないけど、落ち着いた感じで、他人の話を聞ける人だった。大人だった。

これがもし独身同士だったら、たぶん会話もできないんだろうな。私が学生だった頃を思い出すに、好きな人と話す時とか、話しかけられそうになった時や、視線が合いそうになった時は、まともな状態じゃなかった。廊下で好きだった人と出会い頭に走って逃げたこともある。

ありていだけど、胸がドキドキとでも言えばいいのかな。今ではそんなことはないけど、若い時はしょっちゅうだった。例えば、会社の中でFAXの目の前にいて、気になる人が傍を通りすぎる時に、「増田さん、やり方がわからないの? 教えてあげる」というシチュエーション想像して胸が痛んだ。もう、あの頃のピュアに戻ることはないのだろう。

そういえば、今の旦那出会った時もそうだった。地方都市大学生をしてたんだけど、ハタチの頃の旦那ゼミの帰り道に傘を持ってなくて、横断歩道に立っていた。すぐ後ろにはお婆さんがいて、「傘、途中まで一緒に入りませんか?」と問われて、旦那が承諾したみたいで、結局は駅の前まで二人で相合傘だった。お婆さんは旦那とずっと話をしていて、満足そうだった。

当時の旦那のそんな姿を見て、気になり始めたんだっけ。懐かしいな。

本番当日、Nさんと一緒にイベント仕事をこなした後も、会社の中ですれ違う度に挨拶をしたり、他愛ない話をしたりした。結婚というのはスゴイと思う。どんなに素敵な人を目の前にしても、全然緊張しなくなる。自然体でいられる。この人と結ばれることがない、という安心感からだろうか。

ちょっと前なんかは、私のいる職場にNさんが用事でくることがあった。あっという間に帰ろうとしたのだけど、その時に彼の後ろを追いかけて、「あ、Nさん私と一緒のところに行くんですね。後ろ付いていっちゃお~」って、高校生の頃に戻ったみたいに、わざとらしいアピールをして反応をうかがった。「行き先が一緒なんですね。どうぞ」と返してくれた。

あと、別の日に「髪切った?」と聞かれて、ハイと答えると「似合ってるね!!」って言われた。この時も、特別感情は芽生えなかった。いや、すごく嬉しかったけど。でも、ほかの友達と一緒に話をする時とそう変わらなかった。

繰り返しになるけど、『この人とは結ばれない』って心の底からわかってるから、平常心で会話が成り立つ。そうじゃなかったら、いろいろと無理だよ……。



先日のことだ。仕事を終えて事務室を出た後、途中でNさんと一緒になった。会話をしながら階段を降りて、カードキーをかざして建物を出て、駐車場まで歩いて行こうとした時に、「増田さんはいい人ですね!!」とNさんが言った。反応に困っていると「今度二人でご飯行きませんか?」と誘われた。

「いいですよ」とは言ったけど、正直反応に困った。子どもいるから、夕方以降に完全に家を空けるのは……という思いがあるし、昼だと周りに見られるかもしれない。家で飼っている猫も気になる。

子どもに留守を任せることもできるけど、たまに実家の母が訪ねてくることもある。心配でならない。

Nさんとご飯に行きたいとは思うけど、正直迷っている。いったいどうすればいいのだろうか。たぶん、普通にご飯に行っても大丈夫なんだと思う。でも、絶対安心というわけじゃない。ここに書いている暇があったら考えればいいのかもしれないけど、いい知恵が出る自信がない。

こんなに読ませた後で申し訳ないけど、誰か知恵を貸してほしい。手厳しい意見でもいいので。正直、人生で何番目かに迷っている。Nさんとご飯に行きたいけど、もしそういう感じになったら無理だと思う。どうしたらいいのだろう。

2023-04-01

築50年都内マンション様相 身寄りのない高齢者の補足

身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。

 

 コメントで、築50年、1970年代に作られたマンション様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。

 

 このマンション1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取り3LDK私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。

 小学校入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれ班長レストランせがれが副班長スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋社長理工系技術者保育士共産党員福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋おやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油砂糖がないときは借りに行ったりというつあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域情報を過剰に共有していた。マンション商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったか情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。

 おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者ほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり住民がいぶかしがるような時代だった。独身者アパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民マンションに住むという構造だったのだと思う。商店街コンビニレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しか資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京未来を信じていた時代だったのだと思う。

 その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由暮らし謳歌していた。文化的地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。

 そんな2000年代。わが地元マンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化たからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンション世帯四方にあり、衛星放送アンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたときマンション理事会が開かれるという。私は屋上衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話インターネットに繋いでいた時代の話だ。

 「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンション構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下であるエレベーターマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段けが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人住み込み管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心いたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦住民とは打ち解けている。数年前、管理会社方針住み込みでの雇用は打ち切るとなったときマンション自治会自治会費で管理人室を買い取り、管理人雇用することになったとのことだ。そのとき声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込み管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠管理人介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人裁量判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。

 

 とりとめなくなってしまった。地域先生の話をひとつ

 マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球サッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭大人行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師夫人が、先生師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき野球サッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。

 たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生最近どうなのという話題は常にあがる。先生スーパー下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。

2023-02-17

anond:20230217044628

わんさかではないけど1人はみたな

でもOJTといって教育を徒弟制みたいにしてて、

師匠役や上司との相性がうまくいかなければ積極的に干してる部分もある

(主に師匠のほうが地頭がよくない場合に発生しがち)

俺は最初師匠にチェックしてもらってたんだけどいうことが毎回違う、

悩んでたら師匠同期生からあいバカから」っていわれて目が覚めて

そこから顧客につたわりゃいいのかって丁寧に仕事するようになったら

つぎは上司室長)に干された

仕事遅い」っていう理由らしいけどさ。一件もっと上にあがった件があってそこでは俺の仕事を援護された

から転勤して来た上司はこのジャンルでは特定法律が使えるということをしらなかったからその法律をよくつかう俺を見張ろうとおもったらしい

そこからは単に「チェックを1~2日に一回しかやらないしそれでつっかえしてくる」だけの干されっぷりになった

(こっちが2~3件一度にあげりゃいいとおもうだろうけど2件だしても忙しくて1度に1件しかチェックできないっていってくる。

で先に出した方からみてくれるもんだからせっかく切り替えた頭の中がどんな話だったっけっつうのを思い出すのに時間がかかる)

のでなんかもう「ああなるのか~」って最初にあげた一人、「なにもしない人」がずっとうかんでたわ

こいつは禁煙事務室でめちゃくちゃタバコすうし、自分の住居地の市役所かに私用電話かけて親の体調が~とか交渉することしかしなかった

今でいう脳梗塞の高次機能障害なっちゃった人(しかも先輩の話によれば30代で)とおもう、見るからに太ってたしヘビースモーカーだったしな

あと風呂に入らないのでそいつが私用につかった電話の受話器は必ず耳垢がべっちょりでいつもだれかが拭いてた 

で、当時の室長めっちゃ叱ったりなだめすかして自宅待機か辞めるかにもっていって事務室にはこなくなった

あれとおなじで体よく厄介払いされるんだっていう自分の末路がわかっちゃってさ

いやになって途中で見切って辞めて士業で独立したわ

確定申告は大変だけど(1月から準備してたからもうおわったし)、

看板だけでざくざくお金が入ってくる部分もあって

世の中ってそうなってんだな、金くれててもやることを求められない仕事はやらなくていいんだ

こっちも誇りなんかないし、必要以上に細かく丁寧な経費計上なんかしなくていいんだわって思った

他に思い出すといえば、辞める前の職場というか入ってすぐ24歳くらいのとき過労死職場で発作おこして倒れた人)もみたし葬式も出られる人全員で出た

そのときばかりはいつも酒飲まない室長が酒飲んでた

(そのころの職場はいつも夕方から事務室内で冷蔵庫から酒出して飲んでた、

今も情報がもれないように公務員はそうしてるのかもしれない)

奥さんに泣かれたつらい」つってたし

その経験もあってなんか公務員の先の見えている具合が本当に嫌だったなぁ

でもおじさんはたいへんだなともおもったけどね

どれもこれも強者おじさんなんだけど高すぎるプライドとか部下より地頭がよくない事実とか病んだ親とか不出来な子供とかと一生つきあっていくんだよ

がんばれ強者おじさん

職場で全くパッとしない関西弁のおじさんが、年賀状でみるかぎり一番幸せそうだったな

あの人が一番本来的な意味仕事人生ちゃんとやれてた

2023-02-14

Fラン大学入試事務室にも留学生を送り込む中国エージョントの偵察気球が飛んでいるんじゃないか

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん