はてなキーワード: 破壊力とは
「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」という喩え話がある。もし外的要因(地球の重力は除く。)に左右されず直進する物体があるとしたら、発射角がズレるほど目標地点から遠いところに着弾するだろう。
隠蔽といえばいわき信用組合の不祥事が記憶に新しい。迂回融資、無断借名融資などの不正行為に加えて、それらを告発しようとした団体に反社会的勢力の力を借りて圧力をかけ、隠蔽しようとした。
問題発覚後も預金通帳の焼却、マスターデータの入ったPCの破壊など証拠隠滅を行ったことが第三者委員会の調査によって判明しているらしい。
本事案は、融資先の赤字企業が潰れないようにペーパーカンパニーを使った迂回融資をしたところから始まったようだ。しかし、赤字企業の財政を立て直すには一社の迂回融資の金額だけでは足りず、いわき信用組合の利用者の名義を無断で利用して不正融資する(=無断借名融資)など、雪だるま式に不正行為が積み上がっていった。つまり、小さな不正行為を隠蔽するための不正行為が積み重なり、大きな不正行為になった。
結果、昨年に金融庁から査察が行われ、今年の第三者委員会の調査によりこれまでの不正行為がすべて明るみに出た。おそらく、職員もろとも今後数十年に渡って汚名を背負って生きていかなければいけなくなる。
さておき、先ほどの喩え話に戻そう。「たとえ1mmのズレでも、目標地点の距離が遠いほど大きなズレとして反映される」のだ。
換言すると、不正行為を隠蔽することは、物体が本来進むべきルートから外れたために、ルートから外れたこと自体を覆い隠すことを意味する。
しかし、直進する物体は時間が経過するほど目標地点から距離が離れていき、元のルートに戻すのが難しくなる。つまり、隠蔽行為のための隠蔽行為が増えていく。なにかミスが起きるたびに隠蔽を繰り返し、そのたびにコストがかかる。
隠蔽行為が露見したときの破壊力は凄まじい。組織が社会的責任を果たさないということは、組織の社会的信用(第三者から見た信用)を失墜させるということだ。社会的信用を失うと、一般企業であればあらゆる取引が破綻する。たとえば、札幌市では従業員に暴力を振るった建設会社はレバンガ北海道(プロバスケットボールチーム)との事業が打ち切られた。必然的に従業員の賞与金額が下がったり、非正規雇用者のクビが飛んだりするだろう。
こんなことは馬鹿でもわかる話だ。
だが、内部統制が実質的に存在しない中小零細企業(もちろん、すべての中小零細企業ではない。)だけでなく、大企業でさえ不正行為の隠蔽がたびたび取り沙汰される。これは内部の人間が馬鹿なのではなく、意思決定が狂う組織構造や企業文化によるものが少なくない。
そんなことになるくらいなら、問題が小さいうちに頭を下げるなり、示談するなりしたほうが余程被害は小さいまま、スムーズに解決する。
(俺の前職の連中はハラスメント事案などを気軽に隠蔽しすぎた。そのことが噂話として拡散され(しかも、当人たちの口によってである)、社会的信用を失いつつある。すでに採用難に陥っていて、信用回復の見通しは立っていない。不正を黙認した従業員のイメージも下がるので、転職なども難しくなっただろう。)
ガバナンスの効いた職場なら積極的に不法行為を犯し、問題を大きくする人材なぞ危なかっしくて使いたくないと判断するだろう。
仮に登用されたとしても昇進は見込めない。あるいは、昇進してもそこそこのところで転落するだろう。企業活動は問題解決の連続だ。わざわざ問題を増やし、問題を拡大し、損害を発生させるバカに上位の権限を渡すわけがない。権限を渡したらとんでもないことになるし、なっているところを何度も見てきた。
昨今はSNSの台頭によって情報の拡散が早く、広範囲だ。株価やブランドイメージを気にする大企業はコンプライアンスにはとりわけ気を使っている。昔からハラスメント気質の企業文化だとされてた営業系企業、建築土木企業も体質改善に取り組みはじめている。
そんな社会情勢の中、いまだに昭和の価値観の色濃い前職の連中。上から下まで馬鹿ばかりだといいたいが、一番だめなのは意思決定者であるトップだ。
切腹させるべきだ。
それがいちばん被害が小さく済む道だ。自分を含む周りの全てを破壊しながら、意地汚く座席にしがみつくつもりなんだろうか?
信用を回復させるためには、「罰則を受け入れ、損害を賠償する」という企業責任を果たすのが正解だ。
加えて、なにか問題が起きた時、当事者と真正面から話し合うほうが低コスト低リスクで済む。
はてブで上田麗奈凄いとあったのでチェンソー見る気になり、同じIMAXで鬼滅もついでに見た
原作既読、アニメは2期途中脱落、原作知ってれば大丈夫だろうと判断
和風建築立体物をビャーっと移動してはバトル、を2時間半ずっと繰り返すだけだった
全部をセリフで説明してて、絵も強調しておきたいとこをじっくり強調して見せてて、複雑なことは一切なく、平板の極み
が、よく考えるとストーリー知ってて新鮮味のないバトルだけで2時間半を特に引っかからず見れてしまった時点で凄かった
自分は途中で引っかかると直ぐ視聴を止めてしまうし、映画館でも見始めて1分で引いてしまったりするんで、
説明台詞ばっかバトルばっかの絵をずっと違和感なく見ていられたの変じゃね? と後からびっくりした
よくある作画凄いアニメのスゴイ飛び道具もあんまなかった気がするし、それだけ絵で保たせきったということなんだなと
こちらは原作未読なのでTVアニメ(総集編じゃない通常版)を予習して見た
自分の知る上田麗奈の最悪蠱惑キャラは「陰の実力者になりたくて!」2期後半に出てた脇役
1期2期の二桁いるヒロインたち(ピンで客を引っ張れる声優ばっか)を全員一掃する攻撃力で「こいつラスボスだろ」と思ったのに違った
あのストーリー組み立てすらぶっ壊す破壊力を、映画館の音響で聴けるのかと期待してた
おそらく
1は、声優さんが演技全開するのは作画ヘタれて声で全部を表現しなきゃいけないときで(たとえば最高の故田中敦子が見れるのは「 Cutie Honey Universe 」)、上田麗奈が高めの攻撃力でやりすぎるとアカン、というのは判る
じゃあ、なぜ上田麗奈なのか
いや上田麗奈でしっかりハマってましたけども、そこは普通に上手いからね
ファイアパンチ途中までは覚えてるが最後どうなったか忘れた。その他はネットで無料で見れるときは見る程度
基本的に漫画がヘタで、技術的にヘタなのと本人の熱量というか過剰さがあるのと、
読者が漫画を読むの下手で過剰に押し込まれないと読めないのと、
読者が実写ぽさ(デフォルメじゃないという程度の意味)に寄せると絵が上手いと思ってくれるのとの合成で、藤本タツキ漫画が成立してる(最近は知らない)
ジャンプは子供向けだと凄く子供向けに振る(スパイファミリーとか)し、女子向けだとすごく女子向けにするし(呪術とか)、たぶんアンケートで高齢女性ファン層向けと判断してオサレにOK出したんだろうし、ED曲が毎回違うとか監督独断で決めれるわけもないので、オサレで行くって関係者皆で決めたんだろうけど、呪術じゃないんだから
TVシリーズの最後のバトルで敵を一刀両断してたけど斬鉄剣みたいのだとチェンソーの意味ない
原作どうか知らんが肌に食い込み肉を引き裂き血と肉片をそこらじゅうに撒き散らすチェンソーだから藤本主人公
斬鉄剣やりたかったら主人公を日本刀マンにリデザインすべきで、そこは「オフビートな演出で統一したかったんじゃね」で済む話ではない
漫画でもたぶん自粛ありそうだが血や肉片を散らかしまくると規制に引っ掛かりまくりそう
映画でチェンソーでぶった切りまくりのキメ絵を漫画に寄せてたのもガチ肉片とガチ血しぶきを避ける都合かな
デビルマンフォロワーであるチェンソーマンでこの技法を使ったのは意図的じゃないかな
真似される技法を開拓し映画チェンソーマンに繋いだ実写デビルマンをネット民はいつまでネタ扱いし続けるのだろう
藤本タツキぽさは過剰さがあって成立するわけで、ルックバックの二人に炎尾燃が割り込む同人表紙はそういう過剰さを足したいという批評だろう
「炎の転校生」の頃から熱血を距離を置いて観察しつつ否定せずの島本ならでは
オサレでは足りないのだ
藤本タツキぽい過剰さはあんまないというか、しっかり情報整理しまくって綺麗に腑分けしてる
オサレではなくなり、よく練りこまれたウェルメイドに落ち着いた感じ
藤本タツキは映画好き。その映画好き成分を漫画に上手く変換できてるわけではない
映画を漫画にしきれない原形とどめた形でひり出しちゃった漫画原作を劇場映画の形にする奇形の入れ子状態
実写映画やアニメーション映画の既存の形式よりかTVアニメの形式に寄ってる感じがある
詰め込んでるのもあって短いカットばかりだし映画でございみたいな構図で絵を作るみたいのもあんま押し出してこない
しかしそこに原作の「映画のまねごと」という要素をうまく取り込んで映画ショットぽいのを取り込んでる
あくまで「ぽい」であり映画ショットそのものではないが映画ショットのよう、ややこしいことやってる
完全に日本のTVアニメのOPのフォーマットであり映画の文法では全くないのだが
「作品要素をOPで説明しきる」という伝統が培ってきた技法をフル活用して、
TVアニメ最終話の直後という時系列説明と同時にデンジが手放したくないと思ってる現在の生活を説明し
マキマの存在感とキャラクター説明をこなしつつ終盤に繋げる伏線を描き
ちょい出の脇キャラ顔みせしつつ悪魔の存在と主人公たちの悪魔退治業務を説明し
デンジがチェンソーマンに変身するのとデンジが変顔しまくりのバカキャラなのを説明し、と
OPアニメを最初から全部読み取るのは無理だと思うが、TVアニメを見ずに映画だけ見に来た層が話についていける情報を網羅しきっている
メタで本作について言われそうなのを先回りしてて、けなす方向でも褒める方向でもSNSのお手軽一言で終わらせねーぞという粘っこさがすごい
レゼ編全体の絵図面を最初から描いてるらしきマキマが映画見て感想言うことで「映画ぽさを装う映画」という形式の上にさらに被せてくる
チェンソーマンはいかにも映画でございを装いつつもTVアニメフォーマットを駆使する
鬼滅は世間様の言うような映画ぽさをはなから捨て去って絵ぢからで映画にしてる
なんだこいつら
ジゴロじゃなくてホストクラブのホストで鎖つながれたままでした、という
レゼの気分的には「俺たちに明日はない」で、中盤で逃げようって言ってる時点で気分的には逃避行が始まってて
デンジと最後二人が哀しきしあわせエッチってことはモブ殺し屋さん絞めてるの無理やりエッチのメタファだろうし
売春なのか他のシチュなのかは不明だが行為のあいだずっと意識を逸らして歌ってるのとか判りやすすぎる
薬屋の猫猫も左腕のは薬や毒の実験としてるけど露骨にためらい傷のメタファだし
服毒したがるとか自傷で自己の肉体の存在確認してんだろうな、だし
推理しまくるくせに認識したくないことに気づきそうになると意識飛んで思考キャンセルするし
猫猫やレゼに自己投影する女性が多い時代って、あんまし……いや
パワーが二人の思い出の喫茶店に来襲とか、うわ
ファムファタールじゃなくていいよ
「ばくおん!」の頃にもどって
頭空っぽ天然でいて
フォーマットとしてTVアニメシリーズの形式性に強く規定された上で巷間での映画らしさみたいのを侵食してく
すごい時代すね
俺に娘ができた。娘だと?俺の知り合い、全員娘を人格が変わるくらい溺愛してる。俺もそうなるんだろうか?それくらいの破壊力を備えてるんだろうか。
子どもは2人目で1人目は男。今は保育園児。息子だって死ぬほど可愛い。俺に似て内弁慶で外では大人しいのに家ではイタズラし放題。しかし娘が産まれてからネコのぬいぐるみを自分の横に置いて布団被せて寝ている。曰く、寝かしつけの練習らしい。天使かお前。
そもそも妻のエコー検査で女の子だと分かってからおかしかった。その当日に成人した娘が家に男を連れてくる夢を見て悶絶。さすがに気が早過ぎる。
不老不死の力と異能を持ちながらも、人類から迫害される少女たち――
『弱者男性ヒーローズ』は、そんな弱き者たちがヒーローとして戦う物語。
記念すべき節目に合わせて、豪華キャンペーンと限定ストーリーが解禁されたぞ。
新たに現れた「ケルビム計画」は、彼女たちの力を兵器として奪い取ろうとする恐るべき陰謀。
孤独を抱えた「星導の弱者男性美少女【祝祭】」は仲間たちと共に立ち上がり、
弱者男性ヒーローズの少女たちは「不老不死」を共通の特性としつつ、それぞれ異なる超常能力を持つ。
テレパシー:仲間と心をつなぎ、戦況を共有できる。支援型ヒロインに多い能力。
念力:物体を操り、戦場を支配する万能スキル。攻防両面で活躍。
変身:外見や能力を切り替え、状況に応じて戦うトリックスター。
タイムトラベル:過去や未来に干渉し、戦局を操作する禁断の力。
アンチマター:触れたものを消滅させる究極の破壊力。リスクも大きい。
ブラックホール:空間そのものを歪ませ、敵を飲み込む圧倒的必殺技。
属性:光
年齢:永遠の17歳
身長:158cm
高市早苗:トリューニヒト
口先だけの「大義」を振り回し、批判も事実も関係なし。正気で言ってるのかと国民が首をかしげても、本人は「歴史に名を残す指導者」気取り。銀英伝でもっとも唾棄すべきトリューニヒトを、ここまで忠実に再現する政治家が現れるとは。
「空回りする無能な若手」
「言葉の花火師」としては華やかだが、打ち上がった瞬間に消える中身ゼロのスローガン。本人だけが優秀だと思い込んで突っ走り、周囲は呆れ顔。フォーク准将すら「まだマシ」に思えるくらいの空回り力。
「信用されない策士」
したたかに見えて、実際は「どこにも居場所がない中途半端」。表向き外交通、裏では権力ゲームに必死だが、カリスマ性ゼロ。気づけば周囲から「あいつ誰?」と忘れられる。帝国どころか、同僚からも信用されない現代版ルビンスキー。
国民の大半が「誰?」で終わる知名度。唯一の存在感は統一教会のバックアップだけ。政策を語るフリをしても、結局は票田を握る教団への忠誠心がにじみ出る。地球教幹部すら失笑するレベルの「操り人形」。
失敗しても責任を取らず、威張るだけの「国民的お荷物」。部下の手柄は横取り、失態は丸投げ。政治を停滞させる天才であり、存在そのものが“日本の足かせ”。銀英伝のロボスが可愛く思えるほどの、地味で確実な破壊力。
秋って魔物じゃないか?ついこの間まで「ダイエット!ダイエット!」とかほざいてたくせに、涼しくなるや否や飯テロ™が始まるんだよ。
金木犀の香りが鼻をくすぐると同時に、「腹減った…」って脳が暴走を始める。
この現象、単なる生理現象だと思ったら大間違いだ。秋の空気には“食欲スイッチ”が埋め込まれているんだ。
まず栗。栗ご飯、栗きんとん、モンブラン…何なんだよ、この芋でもない栗でもない中途半端な食材が、いざ秋になると神々しく見える理由を説明しろ。
ほら、砂糖とバターで和えられた栗の甘み、一口目から脳内にドーパミンがドバドカ降ってくるだろ?
1粒で300キロカロリー級の破壊力を誇るのに、なぜか罪悪感より幸福感のほうが勝つんだよ。
次にサンマ。
焼きあがった瞬間、脂がジュワリと滴り落ちる音が「飯よこせ!」って命令してくる。
大根おろしと醤油をちょいと落とせば、その苦味と酸味のハーモニーが口中で爆発する。
あのコンボを前に「魚はヘルシーだから…」とか言い訳する奴は、もはや食卓に置く皿と疑われても仕方ない。
さらにキノコだ。舞茸の天ぷら、しめじのバター醤油炒め、エリンギのステーキ…秋の森から採ってきたかのような香りが鼻腔を刺激し、脳が「キノコもっと!」と連打してくる。
しかもキノコは低カロリーなのに食べ応えがあるという、ダイエッターの希望と悪魔の好奇心を同時に煽るアイテムだ。
散歩したら腹が減る。
腹が減ったら食べる。
無限ループだ。ジョギングしても、帰宅後に熱々のさつまいもスティックなんて見たら一発で手が伸びるんだよ。
ここまで読んで「そんなに食ってばかりじゃ太るよ…」なんて野暮なツッコミを入れるやつは、お前の食欲センサーが壊れてる。
秋は季節と人類が共同開発した“食の祝祭”だ。カロリー計算とか脂質量とか、そんな数字遊びでこの本能を抑えこめると思うか?
それでもお前らがどうしても抑えたいなら、せめて工夫しろ。
焼き芋は皮ごと食え。
焼き栗は手でむいて、一粒ずつ味わえ。
サンマは一本丸ごと炭火で炙って、隣の家まで匂いを撒き散らせ。
キノコはバターじゃなくオリーブオイルで炒めて少し塩を振るんだ。
そして、飯をかきこむ前に一度、自分で「これが俺の秋の味覚だ!」と宣言しろ。
今季は非常に豊作で、ダンダダンは安定した面白さだし着せ恋は胸を締めつけるようなエモさが健在。非常に良い。瑠璃の宝石は映像美が毎週劇場版クオリティ。それでも劇場で観た鬼滅はもうやはりクオリティがレベチ。作画も音響も演出も、すべてが「さすが天下の鬼滅!!」と叫びたくなる仕上がりだった。
だから今季の覇権はなんだかんだいっても鬼滅で間違いない。と、そう思っていた。
ところが先日の連休。出かける予定もなく暇つぶしに今季アニメのラインナップを改めて眺めていた時、ふと目に留まったタイトルがあった。
名前だけは何となく聞いたことがあった。コロコロで連載してる、ゆる〜いスライム系ギャグだろ?くらいの認識。正直これが二期目なのも知らないぐらいだったが、まぁ試しに一話だけ……そう思って再生したその時の俺に、未来の今の俺は全力で耳打ちしたい。
いやぁ…これ…ね。
登場人物はどんな人物なのかすぐ分かるほどシンプルで、所々挟まれるギャグは勢い重視でコロコロ系。ストーリーは基本的に一話完結で、一期目を観ていなくても普通に楽しめた。
これだけならよくあるコロコロ系のアニメなんだよ。だから油断した。一話完結ながらも軸となるストーリーは全体を通して継続していて、そのテーマがやばい。これ…テーマが完全にトイ・ストーリー級なんだよ。
「おもちゃとは何か?」から「人間とは何か?」という哲学的命題まで自然に踏み込み、それをコロコロ掲載作品らしいギャグとハイテンポなアクションで包み込む。
コロコロ漫画だからこそできる実直さで、形而上学的なテーマに切り込んでいく。この構図のやばさ。
まさに子供向けを装った大人殺し。この破壊力は、本物だ。はっきりいって今年のアニメの中で一番深いテーマを扱っていると言って過言ではない。いやマジで。誇張しているように聞こえるかもしれないけど、マジなんだよ。
だからこそ驚かされた。
演出もまた職人芸。というか非常に丁寧に作られてて教材になるレベル。気取った見せ場を作らず、通好みのさりげない伏線を一話一話に忍ばせてくる。
気付けば二周目必須。あの“何気ない一枚絵”のカット割りに込められた意味を知った時、思わず背筋がゾワッとした。
案配が凄いんだよ。のほほんと長閑な草原に居たと思っていたら、次の瞬間には深海に飲み込まれているような。とにかくシナリオが想像の斜め上杉田。いや斜め上どころじゃない。成層圏突破。
今季アニメ、覇権は鬼滅一強と信じて疑わなかったがしかし今では断言できる。
今季アニメのNo.1は『ぷにるはかわいいスライム』で間違いない。
これがコロコロ連載?嘘だろ?
バトルロードAランククリアして英雄の槍手に入れたけど、なんか強くないぞ主人公。序盤からずーっと、さみだれづき位しか撃てる技がない。ためて撃てばなかなかの破壊力はあるけど、ためるのは1ターンパスするから敵の攻撃バッシバッシ食らうし。
全体攻撃はライデインがあるけど、今作はなんか雑魚敵がタフで、ライデインとイオナズンぶちかましても倒れないやつが多いんだわなあ。もうちょっと『とりあえずこれぶっ放せば、MPは減るけど雑魚敵は一掃できる』みたいな攻撃手段が欲しい。
ドラクエ7の主人公なんて取り敢えずムーンサルト撃っとけばはぐれメタルすら一掃する破壊力だったっつーのに、8の主人公ときた日には。
しかもなんつーか、戦闘でもパッとしないけどシナリオ上でも後手後手に回る主人公やな〜。
目の前で殺された人だけでも3人。
これどう考えても最後の一人も守りきれるわけねーな。
守り切ったら暗黒神が復活しないわけだから守り切れないのは既定路線なんだろうけど、こういう所でドラクエの選択肢の狭さを感じざるをえない。
「核」と「人口」の共通点として、提示された「減らせば人類全体の幸福、増やせば国家の安全に寄与」という視点は、非常に興味深いものですね。それぞれの概念が持つ多面的な側面を捉えようとしています。
核兵器がひとたび使用されれば、その破壊力は計り知れず、人類に甚大な被害をもたらします。
広島や長崎の悲劇が示すように、多数の人命が失われ、放射線による長期的な健康被害や環境破壊も深刻です。
そのため、核兵器の削減、最終的には廃絶は、国際社会の共通の目標であり、人類全体の平和と安全、そして幸福に直結すると考えられています。
核兵器を保有することで、他国からの攻撃を思いとどまらせる「抑止力」として機能するという考え方です。
特に冷戦期には、米ソ間の核兵器増強競争が、相互確証破壊(MAD)という形で大規模な戦争を防いできたという議論もあります。
自国の核戦力を増強することで、潜在的な敵対国に対して優位に立ち、自国の安全保障を確保しようとする意図があります。
これは、地球規模での資源枯渇、環境問題、貧困などの課題に焦点を当てた見方です。
人口が過度に増加すると、食料、水、エネルギーといった資源の需要が増大し、環境への負荷も大きくなります。
また、急速な人口増加は、開発途上国における貧困、教育機会の不足、衛生環境の悪化などを引き起こす要因となることもあります。
この視点では、持続可能な社会を実現するためには、人口増加を抑制し、一人ひとりがより質の高い生活を送れるようにすることが、人類全体の幸福につながると考えられます。
これは、国力や経済力、そして防衛力といった国家の総合的な安全保障に焦点を当てた見方です。
若年層が多い人口構成は、労働力人口の増加を意味し、経済成長の原動力となります。内需の拡大や生産性の向上に貢献し、国家の経済的繁栄を支えます。
軍事力を維持・強化するためには、十分な数の兵員が必要となります。人口が多い国は、より多くの人材を軍に供給できる可能性があり、これは国家の防衛力に直結すると考えられます。少子高齢化が進む国では、自衛隊の募集難といった形で安全保障上の課題が顕在化しています。
人口が多い国は、国際社会における発言力や影響力が増す傾向にあります。
この共通点は、それぞれの概念が持つ両義性をうまく表現していると言えるでしょう。
この命題は、核と人口という異なるテーマに対して、グローバルな視点(人類全体の幸福)と国家レベルの視点(国家の安全)という二つの軸で考えることの重要性を示唆していますね。
俺も一昨年一年発起して、20年勤めた従業員50人ちょいしかいない中有小企業から、グループで12万人いる一流企業(時価総額は日本で50番以内)に転職したら色々と衝撃的だったので書くわ。
中園さんは『花子とアン』は酷かったし、『西郷どん』は見てないけどめっちゃ酷評されていて、『あんぱん』の脚本が中園さんだって聞いた時『花子とアン』や『西郷どん』の二の舞になるんじゃないかと不安だった。
でも、中園さんはやなせ先生と長い間文通していて、愛読書にやなせ先生の『詩集 愛する歌 第二集』、やなせ先生と交流があった向田邦子先生の『夜中の薔薇』、やなせ先生に多大な影響を与えたレイモン・ペイネ先生の『ペイネ 愛の本』をあげていたから「今度こそは大丈夫かも。やなせたかし先生をリスペクトして史実に忠実に描いたドラマになるに違いない」と期待していたの。
ところがとんでもない創作:9のトンチキドラマになっていて腰が抜けそうに驚いたよ。
中園さんの破壊力がここまで凄まじいとは予想してなかったよ…。
https://kunel-salon.com/life/71797/
・足腰が死ぬ
・終わる頃には汗だく
・お子様のクソデカ奇声でレジのやり取りが不可になることが発生
・食べ終わった後の皿をきれいにまとめて通路側に寄せて帰るお客様は神
・醤油全種の蓋オープン、全部バラバラに置いて帰るお客はなんなんだ
・なみなみと注がれた水のコップを大量に置いて帰るのもなんなんだ
・皿を重ねもしないで全部テーブル上にズラーッと並べて帰るのもなんなんだ
・レーン側に全部寄せて帰るのはアレか?ビッくらポンをしてるつもりで?
・醤油や甘ダレやガリ汁が皿にタプタプな状態で置かれるとこぼれるし拭くの大変だし
・ケーキに添えられた生クリームがまるまる残ってると下げるとき手についてウッてなる
・ガチャの中身が気に入らなくても席に置き去りにするのやめてもろて(忘れ物扱いしなきゃいけなくなる)
・小さいお子さんにジュースとか持ってったときの「あいっとう^^」の破壊力よ
・帰り際に「美味しかったわ~」って言われると自分が作ったわけじゃないくせに嬉しい
・オーダーのドリンクとか提供したときに「えっなにそれ頼んだ覚えない…」みたいな顔でこっち見るのやめてマジで
がんばろ…
その上、まず愛されたいが先に来る。
自分は他人を愛さないのに、他人には自分を愛すことを要求するモンスターがそこにいる。
人を愛するためには、自分が愛されたいという飢餓を乗り越えなければならない。
「まず愛されろ」という困難な宿題が課される。ここで詰むこともある。
そしてこの飢餓を乗り越えた上でも、自分は人を愛せないモンスターだったと気付くことは破壊力のある作業だし、その作業をしてもただちに人を愛せるようになるわけでもない。
むしろそこがスタートラインであり、能動的に人の愛し方を積極的に観察/学習しなければならない。
たとえ人の愛し方がわかるようになってきても、今度はそれを実践しなければならないし、実践にあたっては違和感が伴う。
この愛し方は手順や手法や技術であって、自然に行っていることではない。だから作為的・操作的なものだと感じやすい。他人を操作しているだけなのではないかと。
序章:「性癖に貴賤なし」の嘘
「性癖に貴賤なし」という言葉を耳にしたことがあるだろう。たしかに、誰もが自分の好みを持ち、それを否定される筋合いはない——という建前は、社会的な寛容さを保つうえで重要だ。
だが、我々は知っている。現実には「キモい」のランク付けが存在することを。
そしてここに、一つの真理がある。
アニメキャラで抜いてる奴より、生身のアイドルで抜いてる奴の方がキモい。
二次元キャラはあくまで創作物である。魂も、実体もない。著作権はあれど、人格権はない。つまり、どれだけ変態的な妄想をぶつけても、キャラは傷つかない。
それはまるで、誰にも迷惑をかけない一人遊びの究極形。妄想の領域に閉じ込められた欲望は、社会にとって“無害”と言える。
もちろん、「抱き枕に話しかけてるオタク」など、絵面的にシュールなシーンはある。が、それは「変わった趣味」止まりであり、倫理的にアウトとはなりにくい。
一方、生身のアイドルとは実在する他人である。血の通った、生活を営む人間だ。そこに向かって「性的対象」として日々“処理”をしているという行為は、どう言い繕っても一線を越えている。
よくある言い訳:
「向こうも見られる仕事してるし」
このような理屈は、性的搾取の正当化に近い。「見せる自由」と「どう扱われるかの自由」は別物であり、見る側が“勝手に加工”してよいとは限らない。
それを無視してオナネタに使っている時点で、倫理のタガが外れていると言われても仕方がない。
第三章:なぜ“生身”の方が怖いのか?
たとえファンとアイドルの距離が遠くても、SNSでのエゴサ、握手会、誕生日プレゼントなどで、現実に接触しうる存在だ。その相手を性的に消費していると知れたときの破壊力は凄まじい。
いくら「応援してます!」と笑顔で言っていても、裏では“お世話になってる”という事実がちらつけば、サイコホラーの開幕である。
結局のところ、二次元で欲望を処理するという行為は、**限りなく“無害な変態”**である。欲望を空想の箱庭に閉じ込めるその姿勢は、ある意味「性のエコロジー」であり、「倫理的配慮がある変態」なのだ。
だから、はっきりと言おう。
アニメキャラでオナニーしてる奴のキモさ <<< 生身のアイドルでオナニーしてる奴のキモさ
そう、君が抜いてるそのキャラは、誰も傷つけていない。
電力会社でオーディオの音質が変わるのは,オーディオマニアの間では常識となっています。
情報の正確性と公平性で信頼されている某巨大掲示板でもこのことは議論されていて,以下の通り大方の見解が一致しています。
発電方式 特 徴
原子力 劣化ウランの重量感と,どこまでも突き抜ける中性子の透明感を併せ持ち,好みが分かれる。
火力 ねっとりと絡みつくC重油の重厚感に,コークスの軽量感が少々ブレンドされ,一般的な感覚。
水力 力強い瀑布のパンチ力の中に感じられる,水滴の煌き,マニアックな味わい。
風力 通常は,そよ風の清涼感だが,音量を上げるほどに破壊力を増していく,ダイナミックレンジの広さが魅力。
太陽電池 金属的な反響を感じる全体的に硬い音,高域では鏡のような反射が魅力となる。
潮力 押し寄せる波のような低域の存在感が際立つが,赤潮や廃水のような雑味が欠点。
地熱 大地に抱かれるような温かみのあるまろやかな味わい,だが,一瞬の盛上がりが火山の噴火のように力強い。
中部電力 低域量感 低域強すぎ A+
関西電力 高域ヌケ 特徴薄い B
中国電力 透明感 低域薄い B+
沖縄電力 中高域艶 モッサリ遅い A
突然ですが、YouTubeで最も再生されたVOCALOIDの楽曲(Nyan Catのような二次創作を含まない)を知っていますか? ボカロ界出身の有名人である米津玄師やAyase(YOASOBI)のボカロ曲のどれかでしょうか? ボカロブームのきっかけとなった「みくみくにしてあげる♪」「メルト」でしょうか?
ハチ(米津玄師)さんの曲では「Persona Alice」が一番好きです。「マトリョーシカ」以降は、メジャー作品を含めて正直苦手です。アルバムとか買えば昔のような落ち着いた作風の楽曲もあるのでしょうか?
「メルト」は好きですが、当時の荒れたボカロ界隈に独特なサムネを引っ提げて颯爽と表れた「ハト」の方が印象に残っています。可愛らしいメロディに加え、リズミカルでいて意味深な歌詞、それをどこか間の抜けた初音ミクの歌声で響かせる動画の雰囲気が好きでした。元動画は消されてしまいましたが……。
正解は椎名もたさんの「少女A」です。再生回数は2025年5月時点で1.4億回以上。その経緯はいくつか分析がありますのでそちらに譲りますが、初見で当てられる人はほとんどいないのでは。
私は2008年から2016年までの長きにわたってボカロにドハマりし、10,000曲以上を聴いてきましたが、「少女A」あるいは椎名もたさんはその中でも特別な意味を持ちます。私の中でうまく消化できなかった澱みのような何かについて言語化する機会も場所もなかったのですが、「少女A」という文字列がYouTubeでの再生数とともに私のXのタイムラインに流れつき、当時の想いが蘇ってきたのでここに供養します。
話は2008年まで遡ります。当時の私はニコニコ動画の魅力に取り憑かれつつも、「みくみくにしてあげる♪」に代表される最初期の初音ミクブームを白い目で見ていましたが、「メコノプシス・ベトニキフォリア」(2008年・ちゃぁさん)を聴いた瞬間に衝撃が走りました。エレクトロニカというジャンルすら知らなかった私には、嗜好を捻じ曲げるだけの破壊力がありました。それから狂ったようにエレクトロニカのタグを追い、「Parallel Lines」(2008年・ボッチさん)などを四六時中聞いているうちに「Chaining Intention」(2008年・Treowさん)「虹」(2008年・CleanTearsさん)と、関心領域が広がっていきます。
追い打ちをかけるように、「snow knows」(2008年・zddnさん)を聴いて二度目の衝撃を受けました。電子音のようなボカロ声をロックに合わせる試み。完成度の高いギターの洪水。これに参らないわけがない。「参月の雨」(2009年・えこまるさん)などを経て、射程はシューゲイザーからオルタナティブロック、さらにはロック全般へと到達し、気づけば四つ打ちポップから前衛音楽まで全てを守備範囲とするボカロオタクの完成です。
毎日のように知らない扉が開く日々はまさしく青春。今思えば、レコードショップやCDショップで一日中試聴して過ごす若者はこんな想いだったのでしょう。当時のマイリストを見ると、私のボカロ熱の最盛期は2009年〜2012年頃だったようです。わかりやすく学生時代です。なんと自堕落な。
私が椎名もた(ぽわぽわP)さんを知ったのは、「ストロボハロー」(2010年)でした。主張しすぎない落ち着いたオケの中で、繊細かつ内向的な言葉選びにオリジナリティを感じました。「Equation+**」(2010年)「そらのサカナ」(2010年)と、音と言葉の引き出しが増えていき、「ストロボラスト」(2011年)にて一種の到達点とも言える完成度となります。
その後、少し間を空けて「怪盗・窪園チヨコは絶対ミスらない」(2011年)が発表されましたが、バンドサウンドを強調した音作り、あっけらかんとした歌詞と、急に作風が変わったことに驚きました。もちろんところどころに椎名もたさんを感じるのですが、興奮や称賛よりも、心配が勝ったのを覚えています。ただし「パレットには君がいっぱい」(2012年)「Q」(2013年)といった、エレクトロニカ・ロックの絶妙なバランスと、飛び抜けた言語センスが光る楽曲が続き、私のお気に入りは増えていきました。
大好きだったのは冒頭の「少女A」(2013年)です。後期の作風が色濃く出つつも、歌詞は切れば血のでるような生々しい若者の歪みが見事に表現され、特にサビの緩やかな入りからの叩きつけるような叫びは思春期そのもの。当時は(椎名もたさんの他の楽曲に比べれば)再生数が伸びないのが不思議でした。そしてその後、仕事が忙しくなってニコニコ動画を開く時間が少なくなり、だんだんと新曲を探す機会は減っていきました。
椎名もたさんの訃報に接したのは、2015年。Twitterのタイムラインでした。情報源は噂話などではなく、椎名もたさんの所属レーベルからのリリース。疑う余地はありません。1年ほど椎名もたさんの新曲を聴いていなかったことに気づき、椎名もたさんのマイリストにアクセスすると、遺作となった「赤ペンおねがいします」が。さらなる衝撃。椎名もたさんのものとはとても思えない、雑で単純な捻りのないオケ。初音ミクの気の抜けた調声。抽象的というより意味不明な歌詞。素人の感想ですが、私にはそう感じました。精神的または肉体的な崩壊を感じました。椎名もたの崩壊を確かに感じました。椎名もたは死んだ。これほど他人の死を強く感じたことはありません。ただ、「死」を感じました。
さらにショックだったのが友人のツイート。「ぽわぽわPの死亡というニュースは、不謹慎だが頭をPの文字で表現された漫画上の人物が死んだというニュースのようで笑ってしまう」。それまでの人生や思索の全てを音楽に昇華して注ぎ込んできた人間への言葉としてとても受け入れ難く、とはいえ普段ボカロを聴かない友人に悪意はなく、ただただやるせなさのような、哀しさのような、共感してくれる人のいない思いだけが残りました。
その後、仕事はひと段落しましたが、以前のようなボカロ熱が復活することはありませんでした。
結婚して子供ができて、人生観とワークライフバランスが大きく変わった今、改めて「少女A」を聴いてみて、とても良い曲だと感じました。椎名もたさんの動画説明文のとおり、タンバリンを叩いて楽しみたい。カラオケでも配信されているようなので、家庭が落ち着いたら、いつの日かカラオケに行ってみようと思います。大声で歌いながら、タンバリンを叩きながら、少しだけ自分の青春と、椎名もたさんの生涯に思いを馳せて。